時計は回る(二)
正樹は、いきなり故障したスターターに動揺することもなく、有加里と共に『押し掛け』にトライしていた。
「水温計!」
「異常なし!」
正樹の呼び掛けに、有加里が面白がって答える。免許を持っていないので『エンジンの掛け方』は正樹にお任せだ。
それでも有加里は、これが『正式な手順』だと思っている。
「燃料計!」
「いいって感じでーす!」
フロントパネルを覗き込むと、有加里が報告した。
エンジンが掛からないのだ。燃料だって減る様子はない。
それでも正樹は、真面目も真面目『大真面目』なのだ。額には汗が滲んでいる。それを拭って息を整えた。
ここは自分も、一緒に真面目に答えるべきだろう。うんうん。
「回転計!」
「ゼロデース!」
流石にその確認には、有加里も『プッ』噴き出した。慌てて『いけない』と口を塞ぐ。すると安田も苦笑いで頷く。
どうやら二人は、とても気が合う様だ。
それにしても、エンジンを掛ける前に『回転計が止まっているのを確認』するのが、正式な手順なのだろうか。
有加里は面白くて堪らない。気まぐれな『エンジン』もそうだが、もちろん『正樹』もだ。
しかし思い直す。『掃除機が動かない』を確認するときに、必ず『コンセントにプラグが挿し込まれていますか?』とあるように、きっと必要なことなのだろう。
「カタパルト出力最大!」
「了解しました!」
ここからが共同作業の見せ所だ。二人は見つめ合って頷いた。
有加里は『カタパルト』が何なのか判らないが、とにかく『頑張って押すこと』の合図なのだ。
「とりゃー」
「それぇー」
それは二人にとって、『初めての共同作業』ではなかった。
自宅前の長い下り坂を使って、ひたすらに押しては止まり、止まっては押してを繰り返している。
これで、何回目だろうか。もう数えるのを止めた。
早朝の空には、まだ星が幾つか残っている。そんな薄ら寒い空が頭上には広がっていた。
それでも正樹と有加里は、ケータハム・スーパーセブンを押すのに夢中で、星空はおろか『雲行き』さえも見る余裕はない。
「押して押して押してぇぇぇっ!」「それぇぇぇぇっ!」
二人は海に行こうとしていた。海水浴にはまだまだ早い季節。だから、何となく決めただけだ。
その『何となく』のために、有加里の家の前で一度止まったエンジンを再起動させている。
「行くよっ! そのままねっ!」「はいぃぃぃっ」
正樹のセブンは押し掛けが必要だった。それでも家を出るときは、一人で出来たそうなのだ。ホントかな?
もちろん有加里は笑顔で、正樹を微塵にも疑ってはいない。
車重5百キログラム程のセブンであれば、二人で押したなら大して重くはない。
有加里の自宅マンションは、遥か後方五百メートルである。
ほら、あそこにまだ見えるでしょ? 上の方だけ。
スタートラインの幅は、あと三百メートルはあるのかもしれない。
『プスン・プスン・プスン』
「掛かれぇぇぇっ」「お願いしまぁぁぁっ」
正樹は段々と焦ってきていたが、有加里は『このまま海まで行く』のも、面白いと思っていた。
久々に、体全体を動かしている気もする。運動靴で良かった。
『プスンプスンプスン・プスンブルル・ブルル・ブルルルゥゥ」
その時、セブンのエンジンが蘇った。途端に爆音が轟く。
「掛かった!」「やったー」「乗って乗って!」
それでも有加里は乗る前に、右手を正樹の方へと伸ばす。すると正樹も運転席から、体を捻って右手を伸ばした。
二人は勢い良く右手をパチンと合わせて喜び合う。その右手を正樹が引っ張って、有加里をセブンの助手席へと誘う。
やっぱり正樹と海に行くなら、セブンの方が良い。
有加里は『箱入り娘』と相成って、正樹に歯を見せて笑った。