プロローグ(二)
「失礼しました」
マネージャーは、雄大に深々と頭を下げた。そして直ぐに、流れる様な手つきで名刺を出す。
「私、安田正樹と申します」
「はじめまして」
雄大は両手で名刺を受け取った。
コンビニ弁当が揺れて、左手が少し下がっていたのだが、そんなことを安田は気にしない。気になんてしていられない。
「増田雄大です」
雄大は名刺を持っていない。だから、口頭で名前を伝えた。
安田はそれを、瞬時に暗記する。ついでに顔形、髪型、身長。そして見た目の服装。これはさっき見た。地味な服装だ。
夏らしくラフな格好だから、名刺を持っていないのだろう。それにしても、少し疲れた感じ。若いサラリーマンの休日か?
それとも、悩める大人びた感じの子供か。背だけは高い。
見た目の性格。これは、相当悪そうだ。
「増えた田んぼが雄大だ、です」
安田は雄大の、その顔からそんな説明が出て吹いた。しかし、名刺代わりに『連絡先』は教えて貰えそうにない。当たり前だが。
安田は口を押さえて、顔を営業スマイルに作り変える。
「判りやすいですね。ありがとうございます。こちらにご意見を承れば幸いです」
安田は名刺の住所を指差して、もう一度雄大の目を見た。
どうした。最初に見た『淀んだ目』に戻っている。
雄大はもう一度名刺を見た。そして直ぐに裏を確認すると、裏には英語で書かれた名前がある。
雄大は前を向き、名刺を見ずに胸のポケットに突っ込んだ。
「判りました」
雄大は短く言って足の向きを変える。安田が視界から消えた。
後ろからは、歌が『まだ』続いているが、もう聞いてはいない。
「あぁあぁ」
丁度サビの部分と思われる所になり、大音量が雄大の耳に届く。その無理やり感に、雄大は思わず眉をひそめた。
伸ばすタイミングが悪い。第一印象でそう思う。
しかし、それだけではない。
聞くつもりはもうないのに、注意すべき点が次々と浮かんできてしまう。これは、音楽家の本能なのか、それとも職業病か。
一度耳に入った音が、少なくとも『音楽』として認識されると、なかなか追い出すのは厄介なものだ。
気分転換の散歩の筈だったのに、何てことだ。面倒なレポートが一つ増えてしまったと思うと、頭が痛い。
人ごみを掻き分ける様に、雄大はコンビニから遠ざかる。
もうすぐ角を曲がろうという所で、後ろから盛大な拍手が鳴り響く。観客からの声も聞こえて、雄大は足を止めた。
歓声に背を向けたまま耳を澄ます。
しかし雄大はそれを、『温度の低い天ぷら油に入れた、衣ばかりのエビ』と評価して振り返った。
そんな評価にしては、観客全員が『スタンディングオベーション』だと? 雄大の評価と世間の評価は、乖離しているのだろうか。
雄大の思う『素晴らしい』は、世に受け入れられないのか。
『フッ』
いや違う。最初から立っていただけだ。
鼻で笑ってから、雄大は小さく呟く。
「俺の師匠は、そんな天ぷらは嫌いなんだぜ?」
久々に聞いた拍手であったが、雄大には不安定に揺れる、ただの『Es』にしか聞こえていなかった。何の感動も感じられない。
無表情のまま首を曲げ、目のピントを観客の背中から遠くへ。左右に振りながら、音の中心へと変化させて行く。
夏の日差しは『真上から』の筈だったが、やけに眩しかった。
「ありがとうございます!」
甲高い声の後に、歌手は勢い良く頭を下げた。
長い黒髪が滝の様に落ちたかと思うと、それを波打たせる勢いで勢い良く起き上がる。
黒髪を掻き分けた笑顔は、再びスポットライトを浴びる。
その瞬間、雄大の目つきが変化したことに、誰も気が付かない。
「えーっと、この間ですね、この曲を歌ったらお客さんから『すごく良かったです』なーんて言われまして、凄く嬉しかったです。
調子に乗ってまーす」
笑いと拍手を貰いながら、小さなステージの上でマイクを握り、にこやかに話す。
日焼け止めも無駄になりそうな位の光を浴びている。やはりそれを『スポットライト』と言うには、強過ぎるだろう。
横ではさっきの男、確か安田と言った。そいつが、手に持った沢山のチラシを配っていた。
雄大のことは、もう忘れてしまったかの様だ。
膝を曲げながらお辞儀をするのを見ると、彼らにとって自分も『通りすがりの一人』なのだと感じる。
それはお互い様である筈なのだが、何故か悔しい。
不意に雄大は『悔しい』と思った自分に驚く。しかし『悔しい』と思った理由について、深く考えたくはなかった。
自分は違う。いつもそう思いながら、過ごしてきたからだ。
汗を掻きながら集った人たちに話しかける歌手を見て、雄大は哀れみの様な感情を抱く。
ついさっきの悔しさは消えていた。そして思う。
「早く次の曲を歌え」
雄大は音楽が嫌いではない。今日は機嫌が悪いだけだ。
コンビニの袋を右手に持ち替えて、左手を軽く振る。そして、また左手に持ち替えると歩き始めた。
「では、次の曲です」
その声に、雄大は険しい表情のまま聞き耳をたてていた。理由なんて、自分にも判らない。
ただ、等間隔に並ぶ電柱を一小節に見立て、歩きながら調子を取り始める。雄大の心の中では、既に前奏が始まったようだ。
「この曲は去年私が海に行った時に作った曲で、私自身とても気に入っている曲です。
朝、海に行くとですね、昼間の海岸とはまるで違っていて、誰もいないんです。
そんな中、ゆっくりお散歩をしていると、まるで別世界にいるような気がします」
説明を聞きながら、雄大の頭の中で『イメージしたメロディー』がゆっくりと流れ続けている。
そろそろ盛り上がって、歌い出しだ。
「そこに『空き瓶』とかが流れてきたら……」
思い通りに歌は始まらず、おしゃべりだけが続いている。
大通りに出ると、右からやってきたオートバイの爆音に全て掻き消され、もう何も聞こえない。
雄大は振り返らずに、苦笑いだけを残して角を曲がった。