覗く片鱗(四十四)
ボイストレーニングとピアノの指導は全然違う。
悪い意味でピアノは、例え縮こまっていても音は出せる。しかしボイストレーニングはそうも行かない。
委縮して肺も喉も縮こまってしまっていては、碌な声が出ないばかりでなく、そのまま無理にトレーニングを施したとて、『悪い癖』が付いてしまうだけである。
ボイストレーニングは『筋トレ』の一種だ。故に『正しい姿勢』を先ずは意識する必要がある。『怪我防止』の観点からも。
そういう点で友香里の咽は、まだ『未完成』と言えた。
列記とした『トレーニング中』であり、これからも『声の出し方』の指導のみが続く。発声を極めることは、そんなに甘くない。
雄大のように『音楽的な細かい指導』を受けることになるのは、もっともっと後になることだろう。
いやもしかして西園寺は、そもそも友香里に『音楽指導』をするつもりが無いのかもしれない。指導を見ていてそう感じる。
確かに友香里が作った曲をここで歌い、その方向性や感情表現について議論を交わしたことは一度もなかった。
そもそも西園寺が『友香里の曲』を知っているのかも怪しい。
しかし敢えて言うなら、それは西園寺が友香里のことを、同じ『音楽家』と認めてのことなのだ。
安田から紹介された時点で、友香里は既に『音楽家』として世に羽ばたいていたし、友香里自身もそう語っていた。
既に作詞作曲をした実績もあって、販売もされているとのこと。だとしたら、何の疑いがあると言うものだ。
西園寺も一人の『音楽教授』である前に『音楽家』である。
音楽教授の方は定年により退官したが、音楽家に定年はない。
言わば『終わりのない道』を歩み続けるのが音楽家であり、感性を磨き続けることこそが、音楽家として最重要事項に他ならない。
つまり友香里に、『曲想の指導』なんてものは不要。むしろ『邪魔』であり『余計なお世話』と言われても仕方がない。
人が音楽を聴いて『創造性に感動する』のだとしたら、人とは異なる次元へと感性を自ら導く必要がある。
勘違いしないことだ。誰かが考えた感想をなぞるだけでは、『感動する音楽』なんて創造するべくもないではないか。
友香里は緊張した面持ちで両腕を後ろへと回している。
両足は肩幅より少しだけ大きく開いて『休め』の姿勢。
誰の命令か『立ち尽くす』と表現した方がしっくりと来る。ガチガチに固まっていて、指示があるまでピクリとも動きそうにない。
西園寺にそんな『命令』を出した記憶はない。困った西園寺は、椅子に座ったまま友香里を見上げるばかりだ。
両肩を不自然に吊り上げ、その上無理矢理後ろへと反り返っている変な姿勢。『何かの弾み』があっても、そのままの形で後ろへと倒れてしまいそうだ。このままではレッスンにならぬ。
西園寺は苦笑いしながら背中の角度を変え、首を伸ばす。友香里の向こう側を覗き込んだ。
そこには、ぐったりと座る雄大が見える。相変わらず足をブラブラさせている早苗にまで、小馬鹿にされているような。
まぁ雄大は、『音楽家』ではないし、その『卵』ですらない。
ピアノのプロ、ましてや『演奏家』として大成することを目標に掲げていても、それだけではただの素人と変わりない。
多少は『毛』が生えているにしても、大衆へ晒すものに非ず。
だからと言って罵倒するつもりなんて更々ないが、目の前で見た友香里がそう捉えてしまっても言い逃れは出来ない。友香里の緊張は、雄大に対する指導を見てしまったのが原因なのは明らかだ。
西園寺は薄笑いを浮かべると、顎で雄大の方を指した。
「終わったら、動物園にでも連れて行ってあげなさい」「はい!」
友香里はさっきと同じく大きな返事。返事は常に『はい』なのか。
しかし返事をしてしまってから、『質問の意味』を考え始めた。
ゆっくりと動き出し、友香里は『気を付けの姿勢』に戻る。
それから目が垂れて来て、上の歯で下唇を噛むとそのまま口を横に引いて笑った。さっきの『休め』より大分楽になったようだ。
どうやら『楽しいこと』を、色々考え始めたのだろう。
それを見た西園寺は、下唇を突き出して頷く。やっとだ。
「先ずは『アー』でAから。はい」『トーン』「アァ~♪」
ボイストレーニングが始まった。
西園寺にしてみれば、それは『いつも通り』のはずなのだが、そうではない者も一部は居るようだ。
別に『何時』『何処で』『だ・れ・と』『何をしに』『動物園へ行け』と言った訳ではない。『西園寺の意思』を尊重し、継ぐ気がある者と、阻止しようとする者が蠢いている。
ボイストレーニングは、そんな不穏な空気の中で続く。
友香里が上をむいて声を出している間、雄大は下をむいていた。
一方の安田と早苗は、揃って目をむいていた。
友香里は西園寺が、この日ばかりは『仏様』に見えた。