空回り(十一)
直ぐに手帳を取り出した安田は、足の痛みを堪えて幹島が言った言葉を書き留めた。幹島は時々『専門用語』を使う。
直ぐにメモしておかないと、忘れてしまうからだ。
丁度その日の午後、友香里がボイストレーニングに行く予定がある。本当にそうなのか、その時に『確認する』のが一番確実だ。
今から『焦る必要』もないし、まして『緊張する』ことなんて何もない筈だ。時間だってまだある。
しかし安田は、自分が書いたその『手帳のメモ』を見ても、そして読んでも、動揺を隠せない。
バンに揺られながら、友香里は助手席で寝息を立てている。
友香里が安田の表情を窺うなんてことはない。むしろ時々『避けられている』とも感じる。安田はちらっと友香里の方を見た。
友香里を『この世界』に誘ったのは安田だ。
自宅にまで押し掛けて泣いて頼んだ。泣いた自分にも驚いたが、断り続ける友香里に驚いてもいた。
きっと友香里も『自分と同じ考え』だと、思っていたからだ。
しかしそれが『むしろ重荷になっている』だなんて、考えてもいなかったのだ。その一言で安田は泣いた。
すると友香里は『絶対嫌』と断っていたのに、安田の涙を前にして遂に折れ、渋々承諾したのだ。
丁度一年前だろうか。季節は巡るとは良くも言ったものだ。
嫌だったのだろうが、それでも『二人三脚』で努力を積み重ねて来たではないか。もう一度友香里を見る。
安田は去年の今頃から、これまで『友香里のため』にした『色々なこと』を思い出していた。
咽に良いと言われれば何でも買ってきた。
まず最初にカリン買った。電子レンジに入れて食べようとしたのだが、全く食べられなかった。
作詞で『詩の感情が浮かばない』と言われれば、小豆を買って来ると『波音』で夏の気分を演出する。今年もまだ使えるだろうか。
南国気分を演出するために、アメ横でバナナのたたき売りから何度もバナナを買い、サクラと間違えられたこともあった。
だから幹島に『言われたこと』が、気になって仕方がない。
友香里は音痴なのだろうか?
友香里は一体どこへ行ってしまうのか?
安田は事故を起こさないように、慎重に運転をし続ける。しかし、幹島の『姉と同じだね』の一言も、凄く気になっていた。
友香里も、姉と同じく『遠く』へ行ってしまうのだろうか?
安田は言い知れぬ不安に襲われて、思わず隣を見る。
友香里はいつもの様に寝ていた。別にどこへ行くこともない。友香里の姿を目に焼き付けて、安田は再び前を見る。
『ハワイとか?』
ハッとして安田はまた友香里を見た。
なるほど。確かにそれは『こぼれ出た願望』だったのだ。身震いしていた。今直ぐに問い正したい。
しかし友香里は、気持ち良さそうに寝返りを打っただけだ。
思い出すと彼女は、友香里の姉・有加里は、一度しかレコーディングをしていない。
担当が幹島であったのか。安田には記憶がない。判らない。
幹島に言われた言葉を打ち消すため、バンの中で友香里のCDを掛ける。今までの曲に、そんな『願望』はなかった筈だ。
一番近くにいて、一番の理解者を自認する安田であるが、何も判らないではないか。自分が許せない。
しかし安田は、そもそもどの音が『エス』で、どこが『アス』で、そしてどの辺が『ベー』なのか、判らなかったのだ。
それにCDは既に音程を調整済み。何度聞いた所で、幹島のミスを探し当てられる筈もない。
幹島に言われて書き留めたメモを、安田はもう一度見た。
安田は小さく『エスエス』と呟きながら運転を続けている。
記憶にある『人物一覧』の中で、頭文字に『S』が付く人物を探し続けながら。