レッスン(四十八)
「ねぇ。雄大は誰に教わっているの?」
その問いに答えるのは、単純なようで実は難しい。
雄大は教授の派閥をサーチするのを止め、ニコニコ笑っている友香里の顔を見ながら、質問の答えを考え始めた。
別に『嘘を付く』つもりはない。『格好を付ける』つもりも。
それでも『正直に答える』のは、少し気恥ずかしい。
「斎藤先生だよ。知ってる?」「知らなーい」
聞いておいて興味なさげな返事に、雄大は拍子抜けだ。
「ピアノ業界では、結構有名な人なんだよ?」
「凄いじゃん。だからか。雄大、ピアノ上手だもんねぇ」
友香里の反応がちょっと『良い方』へと変わる。すると少なくとも、雄大が褒められている気にはなると言うものだ。
「教わっている『先生』と言うより『師匠』って感じかなぁ」
横目に見える友香里が指さす方向。それが気になって振り返った。
そうだ。ラーメン屋へはこの角を左である。いけない。いけない。
雄大は踵を返すと、先を急ぐ友香里へと小走りに追い付く。
「へぇ。落語家みたいだねぇ」「えっ? いや違うし」
一人で空に向かって喋っていた恰好になるが、友香里の耳にはちゃんと聞こえていたようだ。
「じゃぁ何? もしかして『芸名』だったりするの?」
そうでもないか。何か勝手に話を膨らませて、別な方向へと先走ってしまっている。
「いや、本名だよ。本名で『斎藤先生』だって」
「何だ。芸能人じゃないのか。誰それ?」
「だからぁ、『斎藤』先生だよっ」
何だか友香里の笑顔がいつもの『悪戯』に思えて、雄大は思わず声を荒げてしまった。しかし直ぐに思い直す。
ピアノに興味が無い『一般人』にすれば、そんな反応も止む無し。
「判ったって。そっかそっか。じゃぁ、優しいの?」
笑いながら『落ち着け』とばかりに腕を振り、質問も変えてきた。
しかも『じゃぁ』っておい。が、その質問も答えにくい。
「ぶん殴ったりはしないから、『優しい』に入るのかなぁ?」
「どういう基準? ねぇ、どういうこと?」
ポケットに両手を突っ込んだまま、やや上の方を見たまま話を続ける雄大の横顔を、友香里は不思議そうに見つめる。
そうなのだ。師匠の斎藤は、ぶん殴ったりもしない代わりに、滅多に話し掛けてもくれない。レッスンの終わりに『だいぶ良くなったな』と、言ってくれるくらいだろうか。
「んー。『教えてくれる』って言うか『見て盗め』って感じ?」
答えを聞いた友香里も首を傾げ、考え始めているようだ。
雄大は今言ったことに『間違いはない』と思っている。実際斎藤がピアノを弾いている横で、何時間も見学させて貰っていた。
果たしてその間、技術を盗めたのか。結果には甚だ疑問を感じざるを得ない。そもそも『ピアノを弾く技術』とは何か。
単に鍵盤を叩くに非ず。そこから考えなければならないだろう。
「判ったっ! だから『ピアノを盗んで』来たんだねっ!」
「全然違うしっ!」「嘘っ、違うの?」「ちっがぁうよぉぉっ」
何てこった。どうやら友香里には、凄く難しい話だったらしい。
「あのピアノはさぁ、早苗のお母さんの嫁入り道具なんだ」
「うん。だと思ったよ」「ごめんなぁ」「良いの良いの」
早苗が『お母さんのピアノに触るな!』と怒った時点で、実は友香里も姉の顔を思い浮かべていた。
きっと『優しいお母さんだったんだろうな』と思いながら。
この年で『姉を失ったこと』も悲しいのだ。それがあの年で『母親を失うこと』の方が何倍も辛かろう。比べられることではないが。
そう思ったからこそ、早苗に反論することもなく謝罪したのだ。
「師匠の別れた奥さんでね。家の母の妹なんだけど、事故でさぁ」
「そうなんだ。えっ? 何か複雑っ!」
目を丸くした友香里が、髪を揺らす程『パッ』と振り返った。それでも、しんみりと話し始めた雄大は話を続ける。
「母の実家がさぁ、『早苗を養子にする』って言うのをねぇ」
「ちょっと待ったぁっ!」「んなにぃ?」
雑誌記者なら今の『友香里の反応』は失格だろう。
最初から録音する準備でもしておけば良かったのだ。しかし『複雑な事情』を察した友香里は手を伸ばし、雄大の話を打ち切った。
「周りはともかく、雄大は雄大だからさ。気にせず頑張れよっ!」
鼓舞するように笑顔の友香里が雄大の背中を『パンッ』と叩く。
「何だよそれ。随分急な励ましだなぁ」
苦笑いの雄大がそう言った所で、何も変わりはしないのだが。
「ま、難しい話はこの辺にしてさっ、こいつで一杯やってこうぜっ」
『赤提灯』ならぬ『赤暖簾』を指して、笑顔の友香里が言う。
言い方と顔つきからして未成年なのに、『酒でも飲みに来た』と思われてしまうかもしれないが、その一杯はラーメンのことである。