空回り(十)
「はい、どうぞ」
安田は平然と、幹島に麦茶入りのコーラを手渡した。
返事はない。幹島は直ぐ口を付けると、三口程ゴクゴクと飲む。
それを『無礼』とは言わぬ。致し方なしなのだ。
幹島の目の前にあるもの。それは『赤丸の付いた楽譜』だ。テーブルにあるそれを『ジッ』と睨み付けている。
幹島が集中している証拠だ。頭の中にサウンドが流れている。
何か言うまで、もう誰も口を挟まない。
コーラ入りの麦茶、いや、麦茶入りのコーラを、テーブルの端にトンと置く。返す手で、いや、ズボンで一度手を拭いてから、テーブルの楽譜を取り上げる。動きに何だか迷いが多い。
「プハー。何か違うなぁ」
その言葉に、安田はドキっとしていた。
一方の社長には『その言葉の意味』が判らない。
「入れ直そうか?」
安田がコーラを指差して恐る恐る聞く。作り笑顔だ。
しかし幹島は、『音楽』のことになった途端、安田は眼中にない。目の前に置いてある楽譜を指差して、顔をしかめて口を開く。
幹島にとって安田は、どうやら『楽譜より下』らしい。
「これ、一音半下げてない? やり直しぃ?」
そっちかと思って安田は安心した。急に安心したのを不審に思ったのか、幹島は安田の方を向く。しかし返事がない。
困った幹島は、自分の言ったことに『明確な返事』が来るまで、もう一度コーラを飲むことにする。
頭の中で『スケジュールの組み直し』をしながら。
すると社長が、首を横に振りながら幹島に尋ねる。
「いや、そうじゃなくてね。友香里のファンが、この楽譜を送って来たんだけど、この赤い丸の所で音を外しているって書いてあるんだ。俺たちじゃ判らないんだけど、幹島ちゃん、どうなの?」
社長の言葉を、幹島はコーラを飲みながら聞いていた。
最初は楽譜を見て、次に社長を見て、もう一度赤い丸を見た。
そして、コーラを飲み終わるとグラスを安田に渡し、友香里の方を見る。
友香里は幹島が入ってきてから『一言』も喋っていない。そんな友香里が幹島に見つめられて、コーラを持ったまま横を向く。
そこで幹島は短く言う。
「調子が悪かったんだよね?」
その言葉に友香里は笑顔になって頷いた。幹島は社長の方を向くと『安心させるための言葉』を続ける。
「疲れた時とか、たまには音を外す時もありますよ」
そう言い切ると、幹島もにっこり笑って背もたれに寄りかかった。
果たしてそれが『一流の歌手』であるかどうか。
それは判らないし、今は問題ではない。ガラスの心を持つ友香里が、これからも精進出来るようにするのが周りの者の務めだ。
ほら、『嘘も方便』と言うではないか。
『何だ、そんなことで俺を呼んだのか』
イライラしている時の貧乏ゆすりはない。背もたれにそっくり返った幹島の笑顔が、そう訴えている。
肘掛に両腕を乗せて、両手を左右にプラプラさせ始めた。どうやら『心配無用』の様だ。
「結構直すの?」
安田は右手でチョップでもするように縦にして、ゆっくりと振っている。それは『一般的な意味で』なのだろう。
幹島は安田の方を向いて『そんな表情』と読み取る。だから幹島も『一般的な意味で』と捉えて答える。
「そりゃぁ直すよ。だって、そのままじゃ出せないでしょ?
その為に、あんた、『別々に録音』してるんだからさぁ」
幹島は至極当たり前の表情で言い、皆を安心させた。
実際幹島の腕は確かだ。友香里がどんなに『疲れて』いても、きっちりと仕事をこなす。
「そうなんだ」
社長は納得し、そして安心した。
それでも安田は不安を隠せない。するとそれを打ち消すかの様に、幹島が口を開く。
「いいんだよ。なぁ、ラジオの生演奏じゃあるまいし、
かわいければテレビではOK!」
幹島の言葉に友香里は大きく頷いた。どうやら本人も『テレビ向き』と思っているのだろう。
安田は思う。まだテレビに出るほど売れてはいないだろうと。
「以上ですか? 終わり?」
早く帰りたい幹島は社長に聞く。社長は頷いてにっこり笑った。
それを見て幹島は、ソファーの肘掛を両手でポンと叩いて立ち上がる。まるで『コーラを飲みに来ただけ』そんな感じだ。
「じゃっ、失礼しますね」
社長も直ぐに立ち上がって腰を深く曲げて礼をする。
「すいませんでした。安心しました」
「良いってことよっ!」
社長の肩をポンポンと叩き、幹島は友香里に手を挙げて挨拶する。
「喉、大事にして、頑張って」
「はい」
友香里は疲れているのか、いつもの元気は何処へやら。笑顔だが声は小さい。幹島は一瞬表情を変えたが、直ぐに笑顔へ戻す。
そして、出口に向かって歩き始めた。
氷だけになったグラスを持って、安田が幹島を出口まで送る。幹島は自ら扉の鍵を開ける。
カチンと音がした時に、幹島は安田にボソッと言う。
「コーラさぁ」
安田はまたドキッとした。やはり麦茶とブレンドしたのがバレたのだろうか。
すると幹島は、笑いながら氷だけになったコーラのグラスを指して言葉を続ける。
「俺には『レモン』ないの?」
その言葉に、安田は笑って首を左右に振った。
レモンは『友香里専用』だ。氷を入れてちゃんとしたグラスで出しただけでも有難く思え。と、それは顔に出す。
「あ、それと友香里ちゃんね、『EsとAsとB』、注意して。
お姉ちゃんと一緒だね」
幹島はさり気なく『友香里が外す音』を指摘した。
それを聞いた安田は、ショックの余りグラスを落とす。
子供の頃、壊れた楽器や調律のおかしいピアノで音を聴いて育つと、その音が正しいと認識してしまう。
そしてそれは、大人になって苦手な音として残ってしまうのだ。そんな音感は、少しの努力では直らない。
加速しながら落ちて行くコップの行方を、幹島は冷静に眺めていた。それは幸いにも安田の右足の甲に落ちたので、破壊を免れる。
「いってぇ!」
安田はとても大きな叫び声を上げた。目の前でそんな不幸があっても、幹島は首を回しつつ、笑いながら帰った。
大げさな奴だなぁと思いながら。
今の時代『四分の一調整』なんて、どんな歌手でも当たり前のことだろうに。