レッスン(三十八)
「そうそう」「ふむふむ」
向き合って互いに頷き合う。セリフは違うが想いは一つだ。
「休符の直前まで、音は大事にしないと」
「はーい。気を付けまーす」
元気良く返事をしてから、友香里はふと思い出す。最初に見せられた『雄大のレポート』のことだ。
あの時は相当『カッチーン』と来ていて、まともに見ることもできなかった。しかしあのレポートには、別に『下手クソ』と書いてあった訳ではない。あくまでも改善案だったのだ。あくまでも。
多少贔屓目に見て、同じ音楽家からの『意見である』を旨としつつ、後世への記憶として留めることにした。ちきしょう。
それでも『良い感じ』とか、『いまいち』としか言ってくれない『評論家』よりも、雄大の意見の方が全然参考になる。ちきしょう。
「あとさ、『ん』の歌い方だけど」「ん?」
ご意見はまだ続くようだ。友香里は首を傾げた。
「そう、『ん』ね」「うんうん」
何だかいきなり、日本語の会話になっていない気がする。
生返事をして友香里は口を塞ぐ。そして聞き耳を立てた。
しかし雄大は首を横に振り、それを否定する。
友香里には、何が何だか判らない。眉もひそめてみるが、雄大の表情から『判ってないなぁ』が消えないのだ。
「『ん』は口を閉じて歌っちゃダメだよ」「え?」
今度友香里が発音したのは、『ん』ではなく『え』だったのだが、不思議なことに雄大は頷いた。
「『え』じゃないけどね」「う?」
「『う』でもないけど。大丈夫ぅ?」
雄大は一言づつ答えを探る友香里を見て笑った。どうやらもう一度説明しないとダメらしい。
友香里は意味が判らず、雄大の表情で『正解』『不正解』を判定していた。次に何て言えば正解かを考える必要はなく、さっきから『ん』と言うのが正解なのだが。
「あのさ、『ん』って口を開けて言えるよね」
「何を言っているの? 『ん』は『ん』だよ」
口をギュッと尖らせて反論するが、そうすると余計に正解から遠のいていく。遂に雄大が笑い出した。
「違うってば。言えるから言ってごらんよ。『んー』だよ』
パカンと口を開けて『んー』と言う雄大。友香里も真似をする。
「『んー』」
目の前で見ても尚『雄大の奴何を言ってるんだ』である。友香里は口を開けて『ん』と言って見た。すると、あら不思議。
口を開けていても、ちゃんと『ん』が発音出来ているではないか。
「出来るでしょ?」「あれ? 出来たっ! 私凄い!」
凄く斬新なことに思えて、友香里の表情がパッと華やぐ。
「凄くない。落ち着け。誰でも出来るから」「そんなことないよ!」
いや、実際誰でも出来るのだが。それでも友香里にしてみれば、口を開けたままの『ん』は『新発見』に違いないのだ。