空回り(八)
けたたましい音に、社長と安田は顔を合わせて肩を窄める。
社長は『ガランガラン』と鳴り響く音を聞いて、『今度ゴミ箱買う時は、プラスティックにしよう』と思っていた。
二人は目を合わせているが、話し合っている訳ではない。安田がその時思っていたのは『鉄製のゴミ箱で良かった』なのである。
そして今は、お互いに『お前のせいだ』と思い、『お前が何とかしろ』と、思っているだけだ。
しかし編成会議の様に、友香里は暴れたりしなかった。ゴミ箱を蹴っ飛ばすこともなく、今回は凹まずに無事なままだ。
もしかしたら前回、靴が破損したことで懲りただけなのかもしれないが。そう信じたい。
コーラの缶に全てをぶつけてスッキリしたのか、それとも音楽に関する話は別なのか。
思い起こせば、編成会議で一番揉めたのは、『今日の夜食をカツ丼にするか親子丼にするか』であった。
いや、それも確かに大切だ。認めよう。
しかしそれが原因で、編成会議がだらだらと長引いてしまっては、気の長い友香里だって『堪忍袋が大爆発する』と言うものだ。
とりあえず今度は『単に怒っている顔』でソファーまで来ると、ドカッと座った。
そして、ミニスカートなのに足を組む。
社長と安田は、また気が合った様に、ちょっとだけ横を向く。
「見せてっ」
それを言ったのは、正面に座る安田ではない。そっくり返って偉そうにしている友香里の言葉だ。
右手を頭の支えにし、左手を真っ直ぐに伸ばしていたが、到底安田までは届かない。しかもそれ以上は、腕を伸ばす気もないようだ。
挑発するかの様に手の平を上にして『クイックイッ』としている。
安田はテーブルの楽譜を左手でクルリと回して取り、そのまま立ち上がった。右手には説明書きがある。
両手をそっと伸ばして、友香里の前に差し出した。
緊張のせいか、楽譜の向きは正しかったのだが、説明書きは逆さまになっているではないか。友香里はそれを見てニヤッと笑う。
「逆じゃん」
少しだけ場が和んだ。友香里は足を組むのを止める。そして、右手で楽譜を受け取り、左手で説明書きを受け取った。
安田は友香里の太ももが動く間、ちらりと横を向く。目は心配そうに楽譜を追い、表情はそのままだ。
友香里は足をドンと広げて前のめりになると、今受け取ったばかりの楽譜と説明書きを、目の前のテーブルに並べた。
その場所は、数秒前と十センチも変わっていない。
腕組みをして説明書きと楽譜を交互に眺める友香里の頭が、左右に動いていた。
肘で上体を支え、低いテーブルに覆い被さっているので、その表情までは判らない。
しかし、長い髪が獅子舞の様に揺れていたので、どんな顔をしているのかは判る。安田はそんな顔なんて見たくない。
「私、音痴ってこと?」
下を向いたままの友香里が発した問いは、まずテーブルに当って跳ね返り、安田の耳元をかすめて後ろの壁に当った。
そのまま天井へ屈折して向かい、今度は蛍光灯の丸みに当って乱反射する。
そして事務所は、妙な静けさを残して再び静かになった。
感想を聞きたかったのだが返事がない。友香里は顔を上げる。
友香里の鋭い目に、社長と安田はたじろいだ。
本人曰く、怒ってなんていない。
ちょっとだけ返事が遅いので、じれったかっただけだ。友香里はもう一度聞く。
「ねぇ」
それは文字にして、たった二文字。口の形は『ね』のままで、それを少し伸ばして発音しただけだ。
しかしその『ねぇ』には、友香里独特の『迫力』、いや『凄味』があった。一体、誰の真似なのだろうか。
事務所はクーラーが効いてきたのか、だいぶ涼しい。社長も安田も冷や汗を掻く位冷えて来た。
見合わせた二人の目と顎が、細かく振動し続けていている。
どうやら『お前が言え』の攻防が続く。
「別に、怒っている訳じゃないんだからさぁ」
友香里は頭を振りながら冷静そのものだ。顔も笑顔だし。
しかし社長は『ガラス窓二、三枚の損失』を覚悟し、安田は『全治二週間』を覚悟していた。
「こいつが言っているんだよ」
「こいつが言っているんだよ」
社長は楽譜を指して言った。
安田は説明書きを指していたが、それは二人とも『同一人物』を指していることには違いない。
それは『雄大な田んぼが増えた』の奴、そうそう、あいつだ。
「ほぉー。そうなんだ。ほぉー」
友香里は『アイドルらしい』、それはもう『かわいい顔』で微笑む。しかし、口から発せられたその声は、意外にも低い。
まるで腹の底から出している様な、恐ろしいまでに低い声。
社長はミキサー担当を呼ぶ必要性を感じていた。
一方の安田は、救急車を呼ぶ必要性を感じていた。
それは、夏の空も、だいぶ色あせた夕方のことだ。
事務所に程近いカエデの大木は、カラスの寝床としても有名だ。
そのカラス達が、突然鳴り響いた爆音に驚き一斉に飛び上がった。