蒸発
行きつけの店のキャバ嬢が殺された。犯人はまだ捕まっていない。
首を切り落とされた遺体が川から半分出ていたという。胃からは睡眠薬が検出され、足首に縄で縛られた痕があったらしい。挙げ句の果てに体内の血液がほとんど抜き取られていた。警察はそれらの情報から、犯人はキャバ嬢に睡眠薬を飲ませて眠らせ、足をどこかに縛って逆さ吊りにした後、首を切り落とし血抜きをしたと見ている。遺体には殴られたような形跡はないらしい。動機は不明。そのニュースを今朝見た時、ただ「僕が指名している子じゃなくて良かった」としか思えなかった。それで、しばらく行かないことにした。仕方ないだろう、怖いんだから。
会社からの帰り道、交差点の信号待ちで、ふと今朝のことを思い出したのだった。パッと思いついたあの感想で自己嫌悪に陥る程、僕は正義感の強い人間じゃない。信号が青に変わる。
踏み出した瞬間、つるんと前へ滑った。前へつんのめって頭が地面にぶち当たりそうになる。その時足首を後ろから掴まれた。物凄い力で後ろに引っ張られ、尻に言いようのない痛みが走る。
咄嗟に振り向いてみても誰もいない。あるのは排水溝と、そこから立ち上る白い湯気だけだった。
隣家には男が一人住んでいる。引っ越してきたばかりで、雪を水で溶かそうとしている所(もう出してた)をこの前慌てて止めた。男曰く、これまで雪の降らない地域に住んでいたという。それ以降彼には会っていない。宅配の人が来ているのを見たくらいだった。
そういえば昨日家から出た時、また排水溝から白い湯気が出ていた。最近寒いからだろう。いや、そう思いたい……。僕は今日外に出られないでいる。スーツを着て出勤する準備は万端なのに、さっき会社に休むと電話をした。なぜなら、ドアの向こうに「何か」がいるから……。
最初ドアを開けようとした時、なぜかドアの向こうに人が立っているような気配を覚えたのだ。そうして恐る恐るドアスコープを確認すると……そこは真っ白だった。いや、微かに濃淡はあったかもしれない。背筋が粟立った。
排水溝から出た湯気が意思を持ち、僕が出てくるのを心待ちにしている……我ながら馬鹿げている、そんな光景が脳裏に浮かんだ。そこからはもうダメだった。こんな状況で外に出るなんてとんでもない。例えドアスコープに雪が付いているだけだとしても、一度植え付けられてしまったイメージは中々拭えないのだ。
この前転びそうになった時、後ろから引っ張られなかったか。その時にもあの湯気があったんだ。なぜ? どうして……?
僕は扉の前から離れた。そしてあの男の家側にある窓に向かう。カーテンが閉まっている。そこで、ある仮説が浮かんでしまった。
男はキャバ嬢を誘拐し、睡眠薬を飲ませる。そのまま自宅でキャバ嬢を殺害。逆さ吊りにして血を抜いた。
その血を、もしかしたら……排水溝に、捨てたんじゃないか?
あの日、男がホースで水を撒いていた日。あれは血を捨てた後だったんじゃないか?
下水に溶けた血はこの寒さの中で蒸発し、それが幽霊として排水溝から出てきている……。
筋が通っていない訳ではないが、ありえない。でもこのままじゃどうしていいのか分からない。
まさか、僕の方を犯人だと思っているのか?
テレビをつけたら、昨夜犯人が自首したと報道されていた。そこに映っているのは隣家の男だった。
白い幽霊は僕が犯人だと思って、玄関の前で待ち伏せているまま。
食料はもうない。