春の便り
北方の冬は、どこまでも長く深く停滞している。
大地は幾重もの雪に覆い尽くされ、空はどんよりとした灰色のまま季節を忘れたかのように固く閉ざされている。
けれど。
そんな静止した世界にも、時折ほんの僅かな春の気配は迷い込んでくるらしい。
ある朝のことだった。
古城へ一通の手紙が届いた。
私は暖炉の前で本を読んでいたフレデリックを見上げる。
彼は封筒を片手に、少し呆れたような、それでいてどこか柔らかな顔をしていた。
「……また来てたよ」
差し出された封筒に目を落とす。
丸みのある筆跡。
丁寧なのに、どこか慌てたみたいに勢いよく跳ねる文字。
見間違えるはずもない。
「ソフィ様……」
胸の奥が、小さな火を灯したように温かくなる。
私は静かに、大切に封を開いた。
『レティシアお姉様へ
今年は庭のクロッカスが綺麗に咲きました。
去年は半分くらい凍ってしまいましたけれど、今年はエレノア様が光の護符を埋めてくれたので大丈夫でした。
だから今度は、レティシア姉様にも見せてあげたいです』
封筒の中からは、小さな押し花が滑り落ちた。
淡い紫色の、可憐なクロッカス。
そして、その横には小さな光の護符が添えられていた。
護符は指先に触れると微かに温かく、北方の冷え切った空気の中で優しい光を灯している。
それを見た瞬間だった。
私の周囲に無意識に漂っていたあの刺すような冷気が、ほんの少しだけ凪いだ。
ぱきり、と。
机の端へ張り付いていた薄氷が静かに、涙を流すように溶けていく。
フレデリックはその様子を黙って見守っていた。
「……相変わらず、諦めの悪い子たち」
呟いた自分の声が、驚くほど穏やかに響いた。
ソフィ様は、決して会いに来ようとはしない。
エレノアも、北方へ踏み込むことはしない。
近づきすぎれば、それが私を追い詰め苦しめると理解しているからだ。
私の魔力はいまだに不安定だ。
王都にいた頃のような暴走こそないけれど、感情が大きく揺れれば否応なしに冷気は漏れ出す。
触れれば凍らせる。
近づけば傷つける。
愛しているから、二人は会いに来ないのだ。
その代わりに。
こうして、季節の欠片を送ってくる。
花が咲いたこと。
空が晴れたこと。
そんな他愛のない、どうでもいいような日常の断片を。
───私たちは、貴女を忘れていません。
そんな祈りにも似た想いだけを、彼らは静かに北方へと届け続けてくれている。
私は押し花へそっと指を伸ばした。
冷え切った指先。
けれど今日は、その花を凍らせてしまうことはなかった。
「返事を書くかい?」
フレデリックが静かに尋ねる。
私は押し花を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「……ええ」
掠れた声だったけれど、自然と口元が緩んでいた。
「凍らせずに返事を書けそうですもの」
その瞬間、フレデリックがほんの少しだけ安堵したように目を細めた。
その表情を見て、胸が僅かに痛む。
この人はずっと、私の些細な変化一つに怯えながら生きている。
冷気が強くなれば夜通し眠れなくなり、私が一度咳をすれば血の気が引いたように顔色を変える。
私が倒れでもすれば、まるで自分自身の世界が崩壊するような顔をするのだ。
王位を捨てすべてを振り払ってここに来た今でも。
きっと一生、この人は私を失う恐怖という呪縛から逃れられない。
「……そんな顔をなさらないで」
私が苦笑すると、フレデリックは小さく息を吐いた。
「……そんな顔をしていたかな?」
「ええ。とても」
「困ったな」
そう言って彼は笑う。
けれど、その笑みの奥に張り付いた疲労を私は知っている。
北方の生活は決して楽なものではない。
骨まで凍るような寒さ。
閉ざされた大地。
文明から切り離された孤独な暮らし。
それでも彼は、一度として後悔を口にすることはない。
私の隣にいること、ただそれだけのために全部を捨てた人だった。
その時、廊下の奥で小さな衣擦れのような音がした。
私はそちらへ視線を向ける。
見るまでもない。
ルーカスだ。
恐らくまた、新しい薬か術式を記した羊皮紙を置きに来たのだろう。
姿は見せない。
必要以上に近づかない。
まるで、私の境界線を見極める影のように。
フレデリックも気づいているはずだ。
けれど、何も言わなかった。
彼を追い出せば、私の危うい均衡が崩れることを分かっているから。
奇妙な関係だと思う。
王都にいた頃なら、絶対に成立しなかった歪な距離感。
愛してくれる人。
自分を世界に繋ぎ止めてくれる人。
どちらも違っていて、けれど、どちらも私には必要だった。
長い沈黙の後。
フレデリックが静かに口を開いた。
「……レティ」
「何ですの?」
「春になったら、温室くらいは作れるかもしれない」
私は目を瞬かせた。
「温室?」
「ああ。花くらい、いつでも見られる場所があってもいいだろう?」
窓の外を見る。
荒れ狂う吹雪。
白に塗り潰された世界。
こんな過酷な場所で花を育てるなんて、あまりにも不釣り合いで。
だからこそ、少しだけ可笑しかった。
「まあ。この北方で花を育てるおつもり?」
「君が冬ばかり見ていると、本当に雪になって消えてしまいそうだからね」
不器用な言葉だった。
けれどその不器用さが、今は何よりも心地よく胸に響く。
私は静かに笑った。
王都にいた頃よりも、ずっと深く、穏やかに。
窓の外では、わずかな雪解け水が静かに滴っていた。
この長い冬のただ中にも、確かに春の兆しは届いていたのだ。
たとえ、今はまだ、触れ合えなくても。




