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よろず怪談御伽草子  作者: なかがわ よもぎ
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第九話

 あの日、私は母と大喧嘩をした。理由など些末なものだ。弟に楽しみにしていたおやつを横取りされた腹立たしさから、声を荒げたことを母に見咎められたのだ。致し方あるまい、当時は私も幼かったのだから。私は悪くなどないのに何故叱られねばならないのだと憤り、衝動のまま家出をしたのは実に浅慮だと言えるだろうが。



 とはいえ、私には頼るべき相手がなかった。親戚は皆遠方住まいで、身一つで飛び出して来た子供が辿り着く事は到底無理である。友人の家は早々に母へ連絡が入るだろうと却下した。近隣の公園や空き地を彷徨い、一夜の宿に選んだのは古い古い廃神社だった。一体いつから人の手を離れたのか、それすら分からない社だ。それでも屋根と壁、床があって夜露を凌げるならと、私は一も二もなく転がり込んだ。



 堂の中でじっと膝を抱え、幾ばくか経った頃のように思う。ふらりと、木戸を開いて人影が現れたのは。黙って社に潜り込んでいた後ろめたさから出て行こうとする私を、けれども彼の人は留めた。飄々と掴みどころのない雰囲気でもって、私に羽織を貸して寄こし、干し芋や干し柿に飴といった甘味で切なく鳴く腹を満たしてくれた。

 私には兄姉がなく二人きりの兄弟だったので、彼の人の懐深さに、弟の立場であるとはこのような心持ちかと新鮮な衝撃を覚えたものだ。



 久方振りに目上の人間に甘えられた嬉しさからだろうか、随分とあれこれ強請ったように記憶している。勿論、物を強請った訳ではない。物書きをしていると言うその人に、何か話を聞かせてほしいと頼んだのだ。そこはかとなく困り顔をして見せるものの、最後には私の我儘を汲んで色々と語り聞かせてくれた。私にはそれが純粋に嬉しかった。



 だが、彼の人の話はどれも風変わりだ。およそ子供向けの絵空事には程遠い、摩訶不思議な話だったが、私は夢中になって耳を傾けたものである。その人が海の話をすれば波音と潮の香りが、野山の話をすれば鳥や蛇がどこからともなく姿を見せるのだ。のめり込むなと言う方が無理であろう。・・・まぁ、些か恐ろしい話も混じっていたけれど。

 やがて睡魔との戦いに敗れ一眠りした私を起こした彼の人は、「決して振り向かずに家へ戻れ」と言った。正直別れ難く、後ろ髪引かれる私に「振り向いてはならぬ」の一言は酷であった。しかし、幼いとはいえ己も男。去り際くらいは潔くと腹を括った。そしてこの年の離れた兄姉のように思う相手への未練は、ポケットに入れて持ち歩いていた、少々草臥れの見える楓の栞に託して渡した。



 堂の外は明るく、てっきり明くる日の朝になったのだと思っていたのだが、予想は裏切られる。何と家に戻れば母が夕餉の支度をしているではないか。小花柄のスカートに真白い割烹着へ袖を通した、私が家を飛び出した時と寸分違わぬ姿で。弟は泣き腫らした目のままで車の玩具を転がし、一人遊びしていた。訳も分からず立ち尽くす私を見つけた母は、息子の早々たる家出の終わりを笑い、家へ入るよう促した。弟には内緒よと耳打ちして、やわらかなプリンを見せながら。








 「おじいちゃん、どんぐりあげる!」

 「おぉ、これは立派などんぐりだなぁ」

 私は艶の良いどんぐりを握るのとは別の手で、小さな頭をゆっくり撫でる。ふふふと笑った愛らしい幼子は、新たな宝物を探しに駆け出して行った。縁側に腰掛けながら、小さな背を見送る。


 随分、あれから時を重ねた。まるで白昼夢のような出来事だと今でも思う。家に戻った次の日、母にせがんで本屋に出掛け、彼の人の名を探した。売れない物書きと言ってはいても、著書の一冊くらいあるだろうと考えたのだ。結論を言えば、私は現在に至るまでその人の本を手に出来ないでいる。どんなに大きな書店に行っても図書館で探してみても、一向にあの名が見つからない。町内で物書きはいないかと尋ね歩いた事もあった。出版社に電話して問い合わせたのも一度や二度の話ではない。それでも、彼の人は見つからなかった。


 それだけではない。あの人の、声も姿もたちまち靄がかかったように思い出せなくなった。名と、借り受けた灰白色の羽織ははっきりと思い出せる。なのに、その人が男であったか女であったか、若者であったか老人であったか、思い浮かべる度に記憶の中の姿は輪郭を滲ませた。口惜しさと寂しさで、幼い時分の私は幾度も泣いたものだ。


 やがてあの人と過ごした廃神社も宅地開発の影響で取り壊された。この町も、昔の面影はほぼないだろう。ますます過去は遠ざかり、記憶は日々曖昧になる。



 だがあの晩の事は現実にあったのだ。いつの頃からか、私の家の庭に生えるようになったスズメウリ。秋に灰白の実を揺らすそれらの一つに、鮮やかな楓が描かれているのを知っている。私の贈った栞の楓とそっくりな絵が。


 「人は死ぬまで神の子。どんな時でも見ているよ、と言っていたっけなぁ」


 記憶の底から、あたたかな声が甦る気がした。私はゆっくり目を閉じる。

 彼の人に会えぬまま、私は生きた。名に適った人になると言ってもらえた言葉を胸に、医学の道を目指し、幸いにも長らく勤め上げる事が出来た。子や孫にも恵まれ、現役を退いた後も何とか妻と二人、健やかに老後を送っている。


 「・・・そろそろ、上等な酒と肴でも用意しておこうか」

 「あら、晩酌でもなさるの?」


 午後の日差しを受けて、通りがかった妻が柔和に笑う。ゆるりと首を振って笑い返した。


 「近々、古い友人に会える気がしてね」


 姿形は覚えていなくとも、きっと会えばすぐに分かるだろう。下駄を鳴らして飄々と、今は何処を巡っているのやら。見上げた秋の空には白い飛行機雲が真っ直ぐに筋を引いていた。




 今年も庭の片隅には、スズメウリの実が静かに揺れている。


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