第16話:隻眼の剣士(1)
ヴァネッサは抜刀パパと別れて真っ直ぐに、未だ目を覚まさないクオンの病室へと駆け込んだ。
そこにはノワール家お抱えの医師と、ベッドに眠るクオンの手を泣き腫らした目で握り続けるノエルがいた。
「ヴァニィ……ちゃん?」
病室に駆け込んだヴァネッサを胡乱気に見上げるノエル。
(あなたの瑠璃色の瞳は三人の中で一番綺麗だと思っていますのよ、泣き過ぎたのね、そんなに赤が混じってしまって……。もう大丈夫です、このヴァニィちゃんが来たのよ)
聞いた話ではクオンはもういつ目を覚ましてもおかしくはない容態だという、しかし昏睡がこれ以上続くようだと子供の体力ではあるいはこのまま……ということだ。
(――ここで終わる事を一体誰が許しましたか?わたくしは許しておりませんわよ?なんだかこれクオンみたいですわね?いいですわね?)
ヴァネッサはクオンが眠るベッドに近づいてゆく、病室のベッドと思えない天蓋付きの豪華なベッドは当然ヴァネッサが置かせたものだ。
クオンの眠るベッドがそんな粗末なものであっていいと許した覚えはない。
(抜刀パパの仰る通りたった一回がクオンにとっての終わりだというならば、わたくしに届くその一回まで侍り続ける、それ以外を許すつもりはありません、クオンはずっとわたくしのお供なのですから……)
だから
――寝惚けてないでわたくしの声に応えなさいクオンリィ・ファン・ザイツ!!
「クオンッ!!起きなさいッ!!共に行きますわよ!!」
威高々と、努めて主人らしくヴァネッサはクオンを呼んだ、思えば本当の意味で主従としての在り方を意識したのはこれが初めてだったかもしれなかった。
だから、この先の未来でも二人に掛ける言葉はいつも決まっている。行きますわよ、と。
「――はい!!!!」
主命を受けたクオンはガバと、寝たきりからの寝起きでいきなり腹筋のみを使い上体を起こした。
人体の脅威というかもはや人外じみたその動きに「ぅお!?」と医師も思わず驚きの声を上げて目を皿のようにしている。
そして一瞬何が起こったのか理解が追い付かずの呆然から、クオンが起きたのだという事をじわりじわり理解し、ぱあぁっと喜色を満面に浮かべてクオンの上体に飛びつき泣きじゃくるノエル。
「ヴァニィちゃん!ヴァネッサ様!お呼びですか?お呼びでしたよね?ご無事ですか?ご無事ですよね!?」
魔法による[維持]は処置されていたけれど、実際一週間も飲まず食わずだったのでやつれてはいる、けれど起きて早々にいつものクオンだ、本当に体はもう大丈夫で、起きる切っ掛けを求めていたのだろう。
貌の左半分を覆う真新しい包帯が痛々しい。
それでも目覚めて真っ先にヴァネッサの身を案じるクオンの右眼は悲痛に歪んでいる、賊の一手二手からは護り切る事が出来たけれども、直後にぷつりと糸が切れた繰り人形のように地面に倒れ、その時には既に意識が無かった。
もしも賊に三手目があったならきっと届いてしまった。
それは、"抜刀伯"の言葉通りクオンリィにとっての終わり。
クオンリィにとっての時間は夢すら狭間になくあそこで停止していたのだ。
寝たきりだったせいで掠れてしまった声で、それでも焦りから早口で真っ先にヴァネッサの無事を確認しようとノエルに上半身ごと抱き着かれて動かせない手前側の左手に代わり、奥の右手を伸ばしている。
「クオるん……」
「ヴァニィちゃん様……」
ヴァネッサはクオンの右手を迎えるように優しく包むと、無事だと首肯を返した。
女の子らしいとは言い難い、剣を常日頃から握る硬い手、肉刺ができて潰れてもその程度であればすぐに[回復]魔法で治せる。
『いくら肉刺ができても関係ねぇ!ヒャア がまんできねぇ回復だ!そしたら打込み稽古百本追加だ!!』というのが近接系の性というもの。
それを繰り返すうちにだんだん皮膚が硬くなってしまう、それが近接脳には『グリップがよくなる』『自分の掴みが出る』と好評らしい……。
後衛のヴァネッサには少々理解できない世界だけれども、クオンのこの手は好きだった、それが心なしか窶れ、握り返す力も弱弱しい。
親娘二代にわたって側近として侍るザイツ家の令嬢を救う為に、父ノワール侯爵は西部中と言わず王都からも高名な魔法医を何名も呼び寄せ、あらゆる[回復][治癒]などの医療魔法を施させた。
――それでも、クオンリィの左眼だけは戻って来なかった。
高位の[治癒]魔法には身体の欠損さえ回復させるものもあるのだけれど、今回クオンリィが毒矢を受けたのはまさに左眼、不幸中の幸いと言えるのは弓矢でなく吹き矢であったこと、さもなければ即死であったという程度の幸いだ。
受けた毒は致死量の腐食毒で、眼球の損傷も激しかった上に魔法的な回復を阻害する呪薬等も含まれていた。
例え仕損じても確実にキズモノにだけはするという、第二王子の婚約者を狙った次善の策は果たして功を成し、ヴァネッサは大切な紫の宝石を喪ってしまった。
西部ノワール候からの報復を考えなければ見事であったとさえといえよう。
第二王子は上位の継承者に何かあった時は別だけれど基本的には領地貴族家に婿入りをして公爵を名乗る事になる、つまりもしも彼の婚約者に納まる事ができればほぼ無条件に王国公爵家への陞爵が確定する……。
これが、第二王子に歳近い令嬢がいて、様々な事情があって後が無くなった近隣諸国や国内の貴族たちに最後の賭けに出させていた。
不幸中の幸いというべきか高位の[治癒]魔法は結果としてその身体の傷をすべて跡形もなくした。
それが目覚めて早々腹筋だけで上体を起こし、小柄とはいえノエルに思い切り抱き着かれても痛がる様子一つないほどに回復しているのだから、魔法医達は最高の仕事をしたということに他ならない。
ふとクオンリィの紫の瞳が自分の金色から一瞬だけ逸れた事にヴァネッサは気付いた、基本的におバカだけれど感覚だけは獣のように鋭い子だ、右手を伸ばした時点で己の異変に気付いて焦点を合わせようとして完全に感知したのだろう。
気付いて欲しくはなかったけれど……目覚めた以上はおのずと現実が突き付けてくる事だ。
「――クオるん……っ」
気付いてしまったと思えば、ヴァネッサもノエるんの様にクオるんに力いっぱい抱き着いて泣きじゃくりたい気持ちになる、包んだ手に力が入ってしまう前にそっと離すと、クオンリィの指先が緩く名残惜しそうに宙を掻く。
ヴァネッサは滲む視界にきゅっと唇を強く結んで『主』として胸を張った。
「……お寝坊ですわよ…………ッ」
「すみませんヴァニィちゃん様!――……ちょ、ノエるん、ちゃんと起きましたから……わかりましたから……」
「グヴォるん~~~!」
「誰がグヴォですか?ちょっと?力を抜いてくれませんか?いい加減泣き止みませんか?ちょっ、いい加減邪魔……こら鼻水ッ!鼻水がつきますッ!よだれも!!」
クオンリィは自由になった右手でピィピィと泣いて抱き着いているノエルの浅葱色の頭をぽすぽすと掌で叩いていたけれど、ノエルが鼻水をクオンリィに擦り付けて拭おうとしているのにはっと気付くと拳を握ってゴツゴツと叩き始める。
「えへへ……クオるんに叩かれてるのに痛くな~い!ヴァニィちゃん!いたくないよぉ!」
ヴァネッサへ報告するためにゴツゴツ叩かれながら顔だけ振り返ったノエルは喜色に輝かせた赤みを増した瑠璃色から滂沱の涙を流し、笑み緩んだ口元からはよだれも零れている、更には荒くなった息で鼻提灯までぷくぷくと膨れており、とても淑女とは程遠い顔だ。
クオンの拳は先程手を包んだ感触から本当に痛くないのだろう。
「ヴァニィちゃん様ぁ!ノエるんに離れろって言ってやってくださぁいッ!!」
焦った様子でヴァネッサに懇願するクオン、焦った様子ながらもノエルの浅葱色をゴツゴツやっている右の拳が完全に一定のリズムを刻んでいるのは"抜刀伯の娘"の面目躍如……になるのだろうか。
「ふふ……クオン?クオるんは一週間もお寝坊していたのよ?その間ノエるんはわたくしが何度命令してもここを離れようとしてくれなくて、それをもってノエるんはクオるんを引き留めたと言っても過言ではないわ、即ちわたくしへの忠義を示したのです。だからそれは忠臣へのご褒美です、受け取りなさい?」
「い……一週間……そ、それは、確かにご褒美は……必要……ですね……?」
ヴァネッサが今思いついた適当な事をそれらしく言って笑う、けれどノエルは実際ほとんど付きっ切りで、毎日寝落ちしたノエルをノエるんママが隣室のベッドに運んでいたくらいだった、食事だけは衛生上その隣室でとっていたけれども、ノエルは侯爵令嬢として、第二王子の婚約者として社交に出なければならないヴァネッサがしたくてもできない事を果たしていたのだ。
ヴァネッサからそう言われてしまうと、クオンは困ったように眉を寄せてヴァネッサとノエルを交互に視線だけで見るうちにノエルへの抵抗がゴツゴツからコツコツへと、そしてコンコンへと徐々に弱くなっていく。
クオンだって大好きな幼馴染の献身を無碍にはできない。
クオンリィとノエルは対等に見えて実は身分に上下がある、しかも大凡の印象が与える上下と逆だ。
ヴァネッサの父侯爵の実弟カインが婿入りてガラン家が子爵位を賜わった事は以前説明してある通りで、すなわちヴァネッサにとってノエルとは従姉妹。
少々面倒な話なのだけれど、まずクオンリィのザイツ家は伯爵位である、爵位だけは侯爵に次ぐ爵位だけれど"抜刀伯"という個人の名声による子爵三男からの叙爵という伯爵位で、王国から与えられた領地も屋敷と畑数間だけ程度の極小領だ。
他領近所の農民には『ザイツ様のお屋敷』で通じる程度の領地。
そしてノエルのガラン家はノエルの父カインが婿入りしたため子爵位を得たのだけれど、実際のところは爵位はなくとも古くからノワール侯爵家に仕える名家だった、現在は子爵位でありながらノワール侯爵家から任されたそれなりの領地"ガランの里"を持っている。
家格ならばガラン、爵位ならばザイツ、しかし血統ならノエルということになり、国法で上下を判じると『ノエルが上』になるのだ。
ちなみに先に挙げた王族の婿入り先としての条件の一つである『領地貴族』とは『王家から領地を賜っている』事を意味するので、ザイツ家は候補に入るがガラン家は対象外となる。
貴族めんどくさい。
ただ勿論ながら本人達は気にしていない。
むしろノエル個人としてはクオるんには絶対勝てないし、心から勝ちたくないのだ。
いつでも無邪気に甘えたりいたずらできる親友。
クオンがノエルをぶん殴ったくらいで咎めようという杓子定規な官僚は、もれなく『ガランの影』を踏むことになるだろう。
「えへへ~そうだよ!ご褒美ご褒美!かくご~」
「ふぎゃああぁあぁああぁ!いま腕にねちょってぇ!せめて服ぅ!服にィィッ!!のぉえるぅぅぅぅぅ!?!?」
「うふふ、クオン、ついでに言えばお寝坊の罰でもありますわね?」
ご褒美の下賜を頂いたノエルはきらりと瑠璃色を嬉しそうに輝かせてぐりんぐりんと顔を全力でクオンに擦り付けた、結果としてノエルの涙もよだれも鼻水もクオンの体にねっちょりと擦り付けられて、それにクオンが弱弱しい悲鳴を上げる様子をヴァネッサは楽し気に黄金色を細めてころころ笑って見守っているのだった。
三人娘がきゃいきゃいといちゃついている様子を微笑ましげに見やりながら医師は反対側のベッドサイドに回り診察魔法をいくつか発動している、きっと結果は良好だとヴァネッサには根拠もなく信じることができた、だってこんなに幸せなのに三人の誰かが欠けてしまうなんてあってはならない事。
――許した覚えも許すつもりもございませんわよ?