372 高級酒場
デリカの悩みを聞いてから数日が経ったある日のこと。俺に工務店から連れ出されたゴーシュは、すっかり暗くなった街路を歩きながら首を傾げた。
「おいおいマルク~。そっちからだと遠回りになるだろ? お前ん家に行くならこっちの道じゃねえか」
「大丈夫だよ。おじさんはとりあえずついてきて。……それと、おばさんにも今夜のことはちゃんと言ってきたんだよね?」
「ああ、こういうのは先に言っておかないと、後からカーチャンが怖えからな。それにしてもよ、風呂の代金は十分貰ってるってのに、わざわざお前ん家で酒と料理をごちそうしてくれるなんて律儀なもんだぜ。まあお前の母ちゃんの料理はうまいし、せっかくだからありがたく頂戴するけどな!」
未だに母さんが料理を作っていると勘違いしているらしいゴーシュがニカッと笑った。
それはともかく、たしかに俺は風呂のお礼に旅路のやすらぎ亭の食事会にゴーシュを誘った。しかし今向かっているのは別の場所である。
夜の町を二人でしばらく歩く。ゴーシュは俺の家から離れていくことにぶつくさ文句を言っていたが、なんとかなだめて連れ回し、ようやく目的地にたどりついた。
「はい、到着したよ」
「おいマルク、ここは……」
俺たちの目の前にそびえ立つのは、どこか気品を感じるシックな石造りの建物。
そう、ここは週に一度ベランダで開催されるビアガーデンが話題沸騰、今ではこの町一番といっても過言ではない夜の酒場アイリスだ。
「お、おまっ! なんでこんなところに連れてきたんだよ!? ここは俺の小遣いなんかじゃ、まず入れねえような店なんだからな?」
ゴーシュがうろたえながら言い放つが、俺はそれをスルーしてアイリスの扉をノックする。すぐに向こうからノックが返ってきた。準備はOKらしい。
「まあまあ、いいから。ほら、入って」
俺は扉を開けると、ゴーシュの固い尻をドンと前に押し出す。俺の予想外の力に、ゴーシュはたたらを踏みながら一歩二歩と店内に足を踏み入れた。すると普段の薄暗い店内に入り口にだけ明かりが灯り――
「いらっしゃいませ、ゴーシュさん!」
入り口を囲むようにスタンバイしてくれていたアイリスのお姉さんたちが、声を揃えてゴーシュを出迎えた。美女軍団から突然の歓迎を受け、ゴーシュはぽかんと立ち尽くす。
「お、おい。これって……」
「アイリスへようこそ。ゴーシュさんのお噂はマルク君からかねがね伺っておりますわ。とても頼りになる男性なんですって? ふふっ、今夜はぞんぶんに楽しんでいってくださいね」
アイリスナンバーワンのエルメーナが声をかけると、ゴーシュはようやく話を理解したようで、鼻の下を伸ばしながら俺に振り返った。
「ふひっ、そういうことか~? マルクウ~?」
「そういうこと。この前、おじさんはちょっとかわいそうだったからね。僕からできるお礼といえばこのくらいで……」
「おいおい、このくらいってなんだよ~。お前、この店がどれくらい高いか知ってるのか?」
「アイリスのお姉さんたちも、立派なお風呂を作ってくれたおじさんに感謝したいんだってさ。だから安くしてもらえたし、気にしないでいいよ。それに僕、きっとおじさんのお小遣いよりはお金持ってるだろうし」
「たしかにお前のほうが持ってそうだが、改めてそう言われると地味に傷つくな……」
ゴーシュがげんなりとした顔を俺に向けるが、あまり気を使って欲しくはないので、ここはしっかり金持ってるアピールしておこう。
それに今回の件をカミラに相談したところ、本当に安くしてもらえたしね。お金をそれなりに持っていても、安いに越したことはないのだ。
「子供に奢られるのってどうなんだと思わなくもねえが、お前のことをいまさら常識ではかる必要もねえか。……よし、せっかくだから、ありがたく楽しませてもらうことにするか! いやー、こんなべっぴんさんたちに囲まれるのなら、もっといい服を着てくればよかったな! わははは!」
「うふふ、何をおっしゃっているんですか。今でも十分男前ですわよ? それではお席の方に案内しますね」
「た、たのんます。でへへ……」
エルメーナがふわりと微笑を浮かべると、ゴーシュがだらしなく顔を緩めた。後は彼女に任せることにしよう。
「おじさん、それじゃあ僕はパメラと夕食を食べてくるから。時間は気にせずゆっくり楽しんでね」
「おっ、おう! マルクありがとな!」
ゴーシュは俺に手を振ると、エルメーナに案内されて奥のVIP席へと歩いていった。……せめて、せめて今だけは全てを忘れて存分に楽しんでほしいものだ。
「よし、お迎え終了! マルク君、またねー」
ゴーシュが去ると、彼を囲んでいたアイリスのお姉さんたちは俺に小さく手を振りながら控室へと戻っていく。俺も何度となく通ううちに、すっかりアイリスで知らない者はいない子供となってしまった。
手を振り返しながら辺りを見渡すと、既に席で酒を楽しんでいた周囲のお客さん方は、手厚い歓迎をされたあの男は一体何者なんだ? と騒然とした様子で口々に尋ねていた。それを隣に座るお姉さんたちは笑顔で適当にごまかしているようだ。まあ説明しようがないもんな。
そんな光景を眺めながら俺はカウンターに向かうと、店主のカミラにぺこりと頭を下げた。
「カミラさん、今夜は協力してくれてありがとう」
「いいのよ、マルク君には借りがたくさんあるんだから。まあ……ゴーシュさんは少しお気の毒だけど、パメラもお世話になってるデリカちゃんのためだからね……」
カミラが物憂げに眉尻を下げながら、VIP席の方へと顔を向ける。そこにはさっそく両サイドを美女に挟まれ、お酌をされながらデレデレと嬉しそうなゴーシュの姿があった。
『あーあ、私もあんなふうに接待されてみたいもんですねえ』
先に現地入りしていたニコラが物陰からひょっこり顔を出し、その後ろからパメラも現れた。
「こんばんは、マルク君。……もう家に行く?」
「そうだね。ずっとここにいると、おじさんも気にしちゃうかもしれないし」
「うん、それじゃ行こっか。……あの、少し散らかっちゃってるかもしれないけど、気にしないでね?」
『などと言ってますけど、パメラったらお兄ちゃんが来るまで、ずっとお部屋の掃除をしていたんですよ。むふふ、かわいいですねえ』
『そういうのは黙っててあげなさい』
俺はパメラに案内され、ニマニマと笑うニコラと共に店の裏口から庭へと出た。
庭の片隅には例の風呂小屋があり、そのちょうど反対側には小さい家が建っている。カミラパメラ親子はここで寝泊まりをしているのだ。
俺たちはパメラが開けてくれた扉から素早く家の中に入ると、すばやく扉を閉めた。
パメラ宅の中まで入ったのは初めてだ。質素ではあるけれど落ち着いた雰囲気の部屋の中央には小さいテーブルが置かれている。入った途端にいい匂いが漂ってきたのは、テーブルに飾られた一輪の花の匂いだろうか。
その部屋で一人、椅子に腰をかけていた彼女は、俺たちに気づくと待ちかねた様子で勢いよく立ち上がった。
さて、ゴーシュの接待はここからが本番だ。でもまずは彼女を落ち着かせてから腹ごしらえをしないとね。




