368 ヒノキ風呂
作るしかない――木製の風呂を。
俺の頭にあるイメージはヒノキ風呂だ。ヒノキ風呂はその木目の美しさや温かみ、浴槽から漂う芳しい香りで前世の日本人から愛された一品である。
精霊の木の匂いはヒノキとはまた違うものだが、飽きずにずっと嗅いでいたくなるこの香りは、きっと浴槽向きだと思う。
それから浴槽といえば、領主の屋敷の大浴場を思い出すね。大浴場ではお高そうな入浴剤が使われ、すごくいい香りを漂わせていた。
あの時、自分が風呂の香りに無頓着だったことにちょっとした敗北感を味わったものだけれど、これで挽回できることだろう。いや、むしろ勝ったな!
「ゴーシュおじさん。あのね、この木を使ってお風呂を作れるかな?」
「風呂? でかいタライを作ればいいのか?」
「ううん、そうじゃなくて、四角で縦長で――」
俺の身振り手振りを交えた説明に、ゴーシュはすぐに理解を示してくれた。
「あー、はいはい。なんとなくわかったぜ。大丈夫だ、作れると思うぞ。工賃代わりにまたシュルトリアの木をもらっていいか? あれもかなり質が良くてよ」
「もちろんいいよ、おじさんありがとう! 精霊の木で作ったお風呂はきっといい匂いがして、ずっと入っていたくなるくらい気持ちいいと思うんだよね!」
「ふーん、そんなものか。俺は風呂なんてどうでもいいからよくわからんな」
俺のテンションやや高めの説明にも、顎ひげをいじりながら興味なさそうに呟くゴーシュ。
そういえばデリカの希望でこの庭の片隅に風呂小屋を作ってあげたんだけど、デリカ一家で唯一風呂を利用していないのがゴーシュだって話だ。元から風呂に入る習慣がなければそんなものかもしれない。
……あっ、風呂を作ったと言えば――
「そうだ、パメラ。パメラの家にお風呂を作るってお仕事あったよね?」
「うん。でもマルク君もいろいろと忙しいのはお母さんも知ってるから、気長に待つって言ってたよ」
忙しいからと気を使われる九歳児だったのか、俺。
それはさておき、以前酒場アイリスの裏庭に店員のお姉さんたちも入れるお風呂を作ってほしいという依頼を、ギル経由で聞いていたのだ。
話を進める前に旅に行ったせいで、そのまま放置されていた案件なんだけれど、これはいい機会かもしれない。
「今まで待たせちゃったし、せっかくだから新しいお風呂はまずアイリスに置いてみようと思うんだけど、どうかな?」
「木のお風呂はよくわからないけど、お風呂を作ってくれたら、お母さんもお店のお姉さんたちもきっと喜ぶと思うよ。……その、私も……」
少し恥ずかしそうに髪をいじりながらパメラが言った。そういえばパメラはニコラの奸計にハマって、のぼせるまで風呂に入っていたな。あの時のことを思い出しているのかもしれない。
「そっか、そういうことなら決まりだね。お姉さんたちも入るのなら、いろんな意見が聞けて僕もありがたいしさ」
自分で作るならいくらでも試行錯誤するけれど、作ってもらうにはゴーシュの手を借りないといけないので数は打てない。もちろん工賃――今は原木払いで済んでいるが、これも必要になる。
なので、お姉さんたちにはモニターになってもらい意見を吸い上げ、自宅用の風呂をより完璧な状態に仕上げるというのは、我ながらいいアイデアじゃないかと思う。
アイリスには試作品を置くことになってしまうが、その代わり依頼料は安く設定させてもらおう。
などと今後の展開について考えていると、ふいにゴーシュが声をかけてきた。
「お、おい、マルク。アイリスって、歓迎会にいたパメラちゃんの母親……カミラさんって言ったか? あのすげえ美人がいる酒場だよな? あの店に風呂を置くつもりなのか?」
「うん、そのつもりだけど……」
「ってことは、設置するときにはカミラさんや店のねーちゃんなんかもいるよな?」
「どうだろ、お姉さんたちは営業時間前ならいないことの方が多いけど、いることもあったかな?」
「そ、そうか。……なあマルク、一人で風呂を設置するのは大変だろう? 俺が設置してやるよ! 任せてくれ!」
おおう、なんだなんだ? さっきまでぼんやりと俺とパメラの話を聞いてくせに、やたら鼻息が荒くゴーシュがアピールを始めた。
「いや、土魔法で土台や屋根を作って、お風呂はアイテムボックスから出してはめ込めばいいだけだから、僕一人でも大丈夫だよ」
「いやいや、マルクゥ~。こういうのは本職に任せてみなって! ああいうものを設置するにも、長年の経験や勘ってもんがいるんだよ! ほら、なんだ、角度とかそういうヤツだ! もちろん設置代を払えなんてケチなことは言わねえから。そうしなよ、なっ?」
そりゃまあタダで設置してくれるなら、やってもらったほうがいいのだろうけど、この必死さは……。まあ鼻の伸びたゴーシュの顔を見ればいろいろと察しがつくけどね。
「おじさん……」
思わず呆れたように言葉を漏らした俺に、ゴーシュがすごい勢いで反論する。
「バッ、バカ、そんな顔するなよ! お前に言ったってわかんねえとは思うが、これは浮気とかそんなんじゃねえんだからな? 俺だってなあ……たまには綺麗どころのねーちゃんたちにいいところを見せてチヤホヤされてえんだ! そういう癒やしを今の俺は求めているんだよ!」
俺みたいな子供になんて話をしてるんだ、このおっさん……。熱弁を続けるゴーシュを眺めながら、さてどうしたものかと思ったところで――
『――わかる』
ニコラからの念話が届く。その短い言葉には、普段聞かないような真剣味と憐憫の念が帯びていた。
『お兄ちゃん、ゴーシュをアイリスに連れて行ってあげましょうよ……!』
『えっ?』
『お兄ちゃんだって、わかるはずでしょう? ゴーシュの哀しき魂の慟哭を……!』
ちらりとニコラを窺うと、今にも泣き出しそうな顔をぐっとこらえて空を見つめていた。ええ……なんなのそれ……。
『うーん……今の俺には共感できないけれど、まあ理解はできるよ。たしかにここまで必死な様子を見ると、連れて行ってあげたくなるけどさあ……』
だが残念ながら、タイムリミットが来たようだった。
『あーあ。お兄ちゃんが即答してあげないからですよ』
「――なあ、マルク。頼むよ! 俺はちょっとした夢を見たいだけなんだよ!」
念話をしてる間にも、前のめりになりながら熱く語っていたゴーシュに、俺はやさしく微笑む。
「わかったよ。アイリスにお風呂を設置するとき、おじさんにお願いするね」
「マジか! いやあ、たまには若いねーちゃんたちと触れ合う機会もないとよ、なんだか自分が老けていっちまいそうでな! へっへ、恩に着るぜ!」
「ただし……」
「あん?」
「後ろにいる、おばさんを説得するのは自分でやってね」
「えっ……」
絶句したゴーシュがそろりと後ろを振り返る。そこには腕組みをしながらゴーシュを見据えるデリカママの姿があった。
「若いねーちゃんじゃなくて悪かったね? あんたぁ……」
「あ、ああぁ……。違う、違うんだ……」
しんと静まり帰った作業場に、ゴーシュの震える声だけが虚しく響いた。
◇◇◇
――この後一体どうなったのか。空気を読んですぐに店から逃げ出した俺たちにはわからない。
ただ翌日、詳しい話を進めるために再び来店すると、顔を腫らしたゴーシュが黙々と作業をしていたので、俺はそっと彼に回復魔法をかけてあげたのだった。