269 立つ鳥跡を濁さず
翌朝……といっても夜明け前。空がようやく薄明かりを纏い始めた頃に俺は目覚めた。
普段ならエステルが迎えに来る時間帯だけれど、今朝はエステル家のお手伝いの予定は無い。昨日の送別会が終わった後にエステル宅まで連絡に行き、その時にそう決まった。空いた時間でエステル、セリーヌと共に細々とした旅の準備をするのだ。
俺はニコラを起こさないように身支度を済ませて外に出ると、まずは偽岩風呂に足を運び、浴槽の穴を塞いで脱衣所と岩とタイルは土に戻した。トーリがこの空き地を再利用するにしても、穴ぼこがあったりタイルが敷き詰められていたりすると邪魔だろうからね。
それから自宅に戻ると、敷地の周辺を囲っていた壁を一つずつ土に戻していく。この壁さんのお陰で森の獣は一度も敷地に入ることはなく、畑は守られたのである。お仕事ご苦労さまと言いたい。
最後に残ったのは、高く高くそびえ立つボルダリング壁だ。最初はエステル専用のつもりで作ったのに、まさか自分もこれで訓練することになるとは思わなかったな。エステルほどではないけれど、エーテルのお陰でそこそこ体も動くようにはなったと思う。
これを土に戻すにしても、十メートル越えの壁ともなると結構危ない。そこで少し距離を取った所から、土属性のマナで干渉を仕掛けてみた。
すると壁が土砂崩れを起こしたかのように一気に崩れ、こんもりと大きな砂の山が出来上がった。安全対策でマナをふんだんに込めて固めて作ったので、この土にはかなりのマナが含まれている。肥料代わりにもなると思うので、これは持っていくことにしよう。
砂山をアイテムボックスに収納し終わり一息ついていると、自宅の扉が開いて中からニュッとニコラが顔を出した。俺が起こす前に起きているとは珍しいこともあるもんだ。
「おはよーお兄ちゃん」
「おはようニコラ。珍しく朝早いね」
ニコラは玄関から顔だけを出したまま、ジト目で俺をにらむ。
「外であれだけ派手に砂の崩れるような音がすれば、そりゃあ目も覚めますって……。さすがに今朝は早起きすることに文句はありませんけどね」
「あー……それもそうだね。まぁせっかくだし、これから家の中を片付けようか」
「らじゃーです。おぉ寒う……」
ニコラが顔を強張らせながら玄関からシュッと引っ込むと、玄関の扉がバタンと閉められた。ニコラは寒さに弱いのだ。ちなみに暑さにも弱い。
それからしばらくの間、衣服や部屋に残された食べ物等を集めてアイテムボックスに入れた後、家の中を軽く掃除をして外に出た。
「あのー、絨毯とかベッドなんかが家の中に置きっぱなのは、もしかして?」
「そうだよ。やってみようか」
俺はコンテナハウスに手をあてると、アイテムボックスへの収納を念じる――
「うおっ!」
自分でやっておきながら、一瞬で目の前の壁が消えたことに思わず声が出た。縦横十メートル四方、屋上には風呂まである巨大な建物がすっぽりとアイテムボックスの中に入ったのだ。
これは今までアイテムボックスに入れた物の中では、最大級の大きさとなる。これで野宿の際はかなり手間が省けるなあ。
「はぁ~、魔力の器が広がった影響ですかね。収納容量だけでなくてアイテムボックスの口も広がってるみたいです。普通ならこんな大きさの建物とか、入らないと思いますよ」
「そっか。家を作った時は収納出来る気はしなかったけど、今ならやれるとなんだか思えたんだ。共鳴石でゴリゴリと魔力を減らしながら長電話した甲斐があったみたいで良かったよ」
あの気持ちの悪い感覚に耐えながら三ヶ月続けたことが、しっかりと身になっていたんだな。こんな風に自分の成長を目の当たりに出来た瞬間ってのは、いつだって気持ちがいいね。
「……さてと、それじゃあ後片付けも終わったし、そろそろここから出ようか」
「はーい」
俺たちはすっかり何も無くなった空き地を離れ、セリーヌの家へと向かった。
◇◇◇
コンコン。
セリーヌ宅の扉を叩くと、すぐにセリーヌが玄関から姿を現した。手には旅の必需品を詰め込んでいるのだろう大きめの革袋を持っている。既に準備を整えて待っていてくれたようだ。
「おはようセリーヌお姉ちゃん!」
「おはよう、セリーヌ」
「おはよう、二人とも。マルク、悪いけどコレをアイテムボックスに預かっておいてくれる? こんなのを持ってるとディールに勘付かれそうだからね。鬱陶しいことに、アイツはそういうところだけ勘がいいのよ……」
「はいはい、入れておくね。ところでエクレインさんに挨拶とか……」
俺が革袋を収納しながら尋ねると、セリーヌが肩をすくめて笑う。うーん、やっぱりか。
「あー、無理無理。すっかり酔いつぶれてるわ。お別れは昨日の送別会で十分よ。起こさずに行っちゃいましょ」
セリーヌは玄関を抜けると、外の冷たい空気を吸いながら深呼吸をする。やっぱりドライなもんだな。そうなるんじゃないかと思ってたけどね。
……エクレインさん、お世話になりました。俺は玄関に向かってペコリと頭を下げた。
頭を上げると、いつの間にか家の中に入っていたらしいニコラが、玄関扉を開けて外に出てきた。
『あれ? どうしたの?』
『エクレインママにはママ分をたくさん頂きましたからね。お礼にエステルの家で何度か作ったお手製のクッキーとお手紙をテーブルの上に置いてきました』
『ええっ。お前って、そんな気が利いたことができたの?』
『私をなんだと思ってるんですか……。それにママ分の補給は重要ですからね。これがなければ三ヶ月間、耐えられなかったかもしれませんし』
ニコラはぷいっと横を向くと、既に先を歩き始めていたセリーヌの背中を追いかけて走り出した。ふふ、照れてるんだぜアレ。




