168 グプルの実
エクレインが去った後には胸元から降ろされたニコラが立ち尽くしていた。開いたままの扉に向かって、追いすがるように手を伸ばしている。
『ああっ、私の黄金郷が……』
『毒からずいぶん格上げされたね』
ニコラはスッと手を降ろすと、扉を見たまま語り始めた。こちらからはよく見えないが、口元はにんまりと緩んでいる。
『ええ、お兄ちゃん。ポーションありがとうございます、グッジョブでしたよ。お陰様でカミラママとはまた違うタイプの人妻を堪能することが出来ました。エクレインママはほっそりとしてるんですけど、不摂生な生活のせいでしょうか、ところどころだらしないお肉があるのが逆になんとも言えない生々しさを醸し出しているんですよね。そのだらしない部分をエルフの種族補正でギリギリ補っている辺りのせめぎ合い加減が大変素晴らしいのです。後であのだらしないお肉をそっと摘んでやろうと思ってます。ええ、ええ、私はやり遂げてみせますよ』
『そうですか』
俺は何を聞かされているのだろうか。
ニコラの変態トークを聞き終わった頃、すぐにエクレインは戻ってきた。どうやらそれほど離れていない場所に目当ての物は置いてあるらしい。手にはラグビーボールに似た形と大きさをした濃い赤紫色の果実をひとつ持っている。
そして棚から木のコップを一つ取り出して俺たちのいるテーブルに戻ってくると、コップと果実をテーブルに置いて椅子に座った。
「これがグプルの実よ。これを闇魔法で発酵させまーす」
エクレインはグプルの実とやらを縦に立てるように手を添え、背筋を正すとマナを込め始めた。その手の周辺が薄い黒色の霧で覆われている。これは闇属性のマナだ。
「このまま闇属性のマナを込め続けまーす」
手を覆っていた黒い霧が徐々にグプルの実を覆う。しばらくすると中からコポコポと泡立つような音が鳴り始めた。
「――そろそろいいわねえ」
一分ほど立った頃、エクレインは風魔法でグプルの実の先端部分をスパッと切り取り、中の果汁をコップへと注ぐ。途端に赤ワインのような匂いが周辺に漂った。
「完成でーす。この実はこうして闇魔法で発酵させるとお酒になるのよお。はい、セリーヌにあげるわ」
「出来たてを飲むのも久しぶりね。いただくわ~」
セリーヌがグプルの果汁の匂いを存分に楽しんだ後、コップに口を付ける。これでもうお酒になってるのか。なんというお手軽感。
闇魔法って周囲を暗くするとか状態異常を引き起こすとか、そういう使い道しかないと思ってたけど、発酵を促すという使い道もあるんだなあ。
発酵と腐敗って人に有益かそうでないかで決まるんだっけ。そんな話を聞いたことがある。腐敗ならいかにも闇魔法って感じだけど、つまりは発酵も出来るってことなのか。ちょっと闇魔法に興味が湧いてきたな。
『ニコラ、闇魔法って俺でも使えるのかな? イメージ的に闇と天使って合わないんだけど』
俺は中断していた料理の準備を再開しながら念話で尋ねた。
『私は土属性の天使でしたけど、火水風土光闇無の七属性全てに担当の天使はいますよ。なので天使だから闇は苦手ってことはないですね。別に†堕天使†じゃなくても闇魔法は使えますよ』
なんだか堕天使の言い方に不穏なものを感じたけど気にしないでおこう。
『ふーん。それなら何かに使えるかもしれないから、この家にいる間にエクレインに教えてもらおうかな』
チーズやヨーグルトなんかはこの世界にも存在するし、今は特に作りたいものはないけれど、それでもやり方を覚えておけばいつか役に立つこともあるだろう。
そんなことを考えながら料理の準備を終えた。目の前には父さんの料理がこれでもかと言うくらいに並べられている。
「それじゃあ食べ物も飲み物も揃ったし、いただきましょうか~」
「うふふ、村の料理以外を食べるのは久しぶりねえ! それじゃさっそく……」
エクレインはさっきからずっと狙っていたと思われるテンタクルスのお好み焼きをパクリといった。
「おいしー! うわっ、これおいしっ! これ誰が作ったの?」
「ニコラのパパだよ!」
「へええ、さすがニコラちゃんとマルクちゃんのお父さんね~。お酒にも合うし最高だわ!」
そう言って木のコップになみなみと注がれたエールを一気に飲み干した。ああ、今日であの樽のエールは全部無くなるな……。
「ゴクゴク、ぷはー! ……ねぇねぇ、やっぱりママもお料理はうまかったりするの?」
「ママは……まぁ普通かな」
ニコラが目を泳がせながら答えた。ニコラの言う通り、変な隠し味を入れなければ普通の腕前なのだ。爺ちゃんとの一件もあったし、あれで懲りて隠し味を入れることを止めてくれれば、堂々と普通の腕前と言えるようになるんだけどな。
「ふーん、私の旦那も料理が上手かったのよね~。やっぱり旦那にするなら料理が上手い人に限るわよねえ」
さっきから気にはなっていたんだけれど、やっぱり旦那さんはいないようだ。別れたのか亡くなったのか……。エクレインの楽しかった過去を懐かしむような顔を見ると後者のような気がするけれど、余計な詮索はやめておこう。今は食事を楽しまないとね。
――――――
俺たちがここに来た細かい経緯やファティアの町の話、セリーヌの冒険話なんかを口々に話しながら楽しいセルフ歓迎会は終わった。窓から外を眺めると、すっかり日も暮れている。
「――はふう、もうこれ以上食べられないわ~!」
エクレインが満足げにお腹をさする。そしてその腹をニコラがニヤニヤしながら見つめているのだが、俺以外は誰も気づいていないようだ。
「さてと、こんな村じゃなにもないし、後は寝るだけなんだけど、その前にお風呂……はマルクも疲れてるだろうし、お風呂じゃなくて川に汗を流しに行ってみない?」
「川?」
「ええ、この村にはもちろんお風呂なんて無いからね。水魔法を使える人は結構いるから川を使う人はあんまりいないけど、たまに川で体を清めるのは気持ちいいわよ~」
「ニコラ行きたーい!」
「それじゃあ行きましょうね~。マルクはどうする?」
セリーヌは抱きついてきたニコラの頭を撫でながら俺に尋ねた。
正直なところ、食べてる間にある程度は魔力は回復したので風呂くらいなら普通に作れると思う。……でも、夜の川で水浴びというのも楽しそうだし、せっかくの厚意に甘えてみようかな。




