STEP1-0 新時代の予感~鹿目誠人(かなめまさと)の場合~
どん、と肩がぶつかった。
書類が腕から飛び出した。
白く、無機質に照らされたタイルのうえ、重いファイルが、大小のプリントが、大判の封筒が散らばった。
「前見て歩けよ、カメ!」
追い抜かれざまのことだった。あきらかに誠人に責はない。
それでも、彼らはそう言い放つ。
悪意のもとに苗字をもじった、カメ、という名を投げつけて。
誠人は答えず、ひとり書類をかき集める。
首相交代から約一年、こんなことはもう珍しくもない。
確かに不快だが、たいした実害もないことだ。いちいち相手をするだけ馬鹿らしい、と考えて、いつものように受け流す。
けれど。
『ったく、お砂場のカメは邪魔くさくって困るよなぁ』
『いつまでも役にも立たねえ緑化事業なんかにしがみついちまってさぁ』
遠ざかっていく聞こえよがしは、誠人の耳に突き刺さる。
一文目、二文目。それでも誠人は反論しない。
それを受け入れてはいなくとも。
なぜって、反論するだけの実績がない。
しかし、三文目。
『秋葉のじいさまはとっくに死に体だってのにさ!』
誠人はきっ、と顔を上げた。
秋葉のじいさまこと、秋葉渡前首相。
誠人がこころの主と仰ぐ男は確かにいま、機械の力で命をつないでいる。
だが、それでもりっぱに生きているのだ。
手をとれば、ぎゅっと力強く握り返し、無言でエールを送ってくれる。
時に目を覚まし、誠人を見つめる黒い瞳は、どこまでも澄んでまっすぐで。
『ユキマイの地を、かつてのような美しき沃野に……』
『そうして、この国の、世界の、飢えている人たちを救いたい』
体は病に蝕まれても、その胸に秘めた熱は、すこしも衰えてなどいない。
生きているのだ。そう、彼の心は、夢は、誠人の中に生きている。
それはたとえ――そんな日は来ないでほしいものだが――彼が天に召されたとしても。
立ち上がり、二人を睨む。ばちりと視線が交差した。
「おお、なんだよ役立たず。文句があるなら……」
そのとき、どん。またしても肩がぶつかる。
ただし今回ぶつけられたのは、誠人に肩を当てた男のほう。
男は猛然と振り返る。が、ぶつかってきた人物を、その正体を確かめるや息を呑む。
「前を見て、歩いてくださいませね?」
「ひっ、『姫』!!」
「もっももももうしわけございませんんん!!」
追い越されざまのことだった。あきらかに彼らに責はない。
それでも、ワインレッドのツーピース、抜けるように白い頬、流れるような黒髪を具した天使は涼やかに言い放つ。
みずみずしい、たおやかな、それでも鋼の意志を含んだ笑みで。
目の前で自らが押し付けた理不尽を、あきらかな上位者からそのまま返されれば、平謝りか逃げるかしかない。二人組はその両方を選択したようだ。
「今日は皆さんお疲れのようね。はい、どうぞ」
残された少女が一転、柔らかな微笑とともに誠人に差し出すのは、幅と厚みのある封筒。先ほど散った書類のうち、最後の一通だろう。
「遥儚さん……」
ありがたくそれを受け取りつつも、誠人はたしなめる調子で彼女の名を呼んだ。
誠人だって、あんなふうにされればやはり悔しい。けれど、それは彼らだって同じだろう。
一官僚の立場では、逆らいようもない相手――朱鳥国の要をなす名家・瑠名本家の令嬢から、そんなふうにされてしまえば。
「あら、朱鳥首相府では前を歩くものが後ろも見なければならないのでしょう?
わたくし、先達のなさりようにならっただけですわ」
ちいさく小首を傾げれば、しっとりとした黒がさらさらと流れ、全てを水に流してしまえとささやく。
そうして懐っこい笑みを向けられたなら、誠人はため息するより他にない。
そう、じっさい、逆らいようのない存在なのだ。
彼女は、誠人にとっては幼馴染だが、同時に唯一無二の、あこがれの天使なのだから。
事業室まえまでの短い距離を、二人は自然に並んで歩く。
その間に遥儚が問いかけてきた。
「その後いかがですの、事業のほうは?」
「思わしくありません。というより、今四半期もまた応募者ゼロで終わりそうです。
彼らがあきれるのも、無理はないですね」
誠人は苦笑しながら頭をかく。
じっさい、八方ふさがりもいいところなのだ。
応募者がなければないで、役立たずといわれ。
あったらあったで、できもしないことに無駄金を使ってと言われる。
雪舞砂漠緑化事業は、いまや存亡の危機に瀕していた。
事業室に割り当てられる予算は大きく削られ、周囲からの風当たりも強く。
志を分け合った仲間たちは、兼務というクッションをつけての引き抜きを受け入れ、次々とドロップアウトしていった。
いまや、緑化事業室にいる人間は、室長兼電話番の彼一人だけといってよかった。
「……兄のもとにいらっしゃればいいのに。
待っておりますのよ、ずっと」
「それは、……」
「まあ、無理強いはできない、それが俺の好きな誠人だから、ともいってましたけど。
妬けちゃいますわ、なんて」
「遥儚さん」
「流れましたわ、例の話なら。
なにかとめんどうですわね。ただ、書類上のことだけのおはなしなのに」
「そんな、……」
軽く、吐息をこぼす遥儚。
誠人はそっと歯噛みした。でも、その先はいえない。
何度目だろう。政略結婚の話が持ち上がっては、顔すらあわせる前に潰れたのは。
それでも遥儚は、揺らがない。『それ』が自分の責務と思い定めているためだ。
自分より八つも年下の女の子が、そんな前時代的な境遇におかれ、悟った瞳でため息をつくさまが、誠人にはとても辛かった。
けれど、誠人にはどうにもできない。
誠人は遥儚の兄・遥臣の『ご学友』だ。親同士も親しい。
だが、瑠名は朱鳥の屋台骨を担う名門。鹿目は傍系のさらに傍系の、ほとんど庶民と大差ないランクの家柄に過ぎない。
そして誠人本人は、うだつの上がらぬ一官僚。
幸せにしてやるには、何もかもが足りなかった。
遥臣の招きを受け入れれば、また違ってくるのだろう。
『外務畑のプリンス』は、誠人の能力と人柄に惚れ込んでいる。
だがそれは、夢の途絶を意味する。
迷ってもやはり、その道は取れなかった。すくなくとも今日は、まだ。
だから今日も、二人の距離は縮まぬまま。
いつもの灰色のドアの前でお別れだ。
だが今日は。
「そうだわ、誠人さん」
黒髪の天使は無邪気な笑みで振り返る。
「やぎ座の今日のラッキーアイテム。みどりのインク、ですって。
さっきの封筒、宛名の印字が緑色でしたわ。
きっと、いいことありますわよ」
突然何かと思えば。少女らしい、かわいらしい慰めに、誠人の顔にも笑みがこぼれた。
「ごきげんよう」
「お気をつけて」
しかし部屋に入って電気をつけ、あらためてその封書を見たとき。
草の葉のような緑色で印字された、表書きを見たとき。
「……!!!!」
誠人は声にならない声で叫んだ。
あて先は、雪舞砂漠緑化基金事業室御中。
差出人は、ユキシロ製薬株式会社CEO、Sakuya I. May。
天使が差し出した封筒は、どうやら本当に、幸運を呼ぶアイテムであったらしい。
誠人はときめきとともに直感した。
――時代が動くぞ、と。




