陽炎
八月一日(月)
夏休みという概念は、大学に入った途端その輪郭をぼやけさせる。始まりも曖昧なら、終わりも曖昧。夏休みが始まった、と友人が浮かれていたのはもう一週間も前のことになった。一方俺はといえば、たった今五限の最終試験を終えたところだ。つまるところ、俺の夏休みは「たった今」始まった、と言っていい。
というのに、窓の外は冬並みの暗さ、おまけに台風レベルの豪雨ときた。
窓ガラスに当たる雨粒は過度な音を立てて、叩き割らんばかりに世の中を揺さぶる。脳みそに詰め込んだばかりの古代ギリシャ語だのラテン語だのの用語が、ぐしゃぐしゃにシェイクされて耳穴から溢れ出していく感覚。口や鼻から出ないだけ、まだマシか。とはいえ、もういい加減人の少なくなった学部棟を歩く分には、耳から何が出ようがどんな阿呆な面をしていようが関係ない。出ていくものを出しっぱなしにして、俺は家路を急いだ。装備がビニール傘一本というのはやや心もとないが、とにかくそれでこの豪雨を凌ぐしかない。憂鬱すぎて口から脳みそが出そうだ。
エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押し込む。ご丁寧な音声の後、雨音の代わりに機械音が、より細かな振動で俺の脳みそを揺さぶりだした。目玉の間が痒くなるような感覚。挙句の果てにはチーンと、電子レンジのような音を立てて止まる。恐ろしい。何も考えていない音だ。俺だって出来ることならそうして何も考えずに生きたい。事あるごとにチーンと音を立てて再起動したい。どこぞのソフトウェアみたいに恐ろしく長い時間をかけて更新プログラムを準備したい。将来の夢リストに入れておこう。
エレベーターを降りて一歩踏み出した途端、鳩尾に長方形の衝撃が走った。
ぐへぁ、と恐ろしく間抜けな声が半開きの口から飛び出していき、盛大に尻餅をついた視界の片隅でエレベーターがご丁寧に挨拶する。吹っ飛んだビニール傘が黒いパンプスの隣に落ちた。女性にぶつかったらしい。すいません、大丈夫ですか、と慌てたような声が降ってくる。視線を上げた。が、恐ろしいまでの逆光だ。相手の後頭部から蛍光灯が生えているように見える。いや、だがしかし、蛍光灯などどうでもいい。一体何を見ているんだ俺は。そこにいたのは、俺に向かって手を差し出しているその姿は。
いえ、と答えた声が盛大に裏返って、ひええ、と聞こえた。俺は一瞬で悟った。
これは、一目惚れという奴だ。
* * *
八月二日(火)
朝、目が覚めた。陽の光が眩しかった。あの人のことを考えた。
全く、何という自然な流れだろう。俺の思考や意志の介入を一切許さない、溜め息が出る程完璧なジャブ、ジャブ、ストレートの一発ノックアウトだ。この恐ろしく蒸し暑い夏の朝に、真っ先に思い浮かぶのが真正面から追突してきたあの長方形レディとは。我ながらイカれている。しかし暑い。タオルケットを全部蹴っ飛ばしても腹回りにだけは掛ける主義だが、そんなことはどうでもいい。今日に限ってはそれを放り出すことを許そう。今の俺に大切なのは頭を冷やすことだ、うん。さらばタオルケット。また今夜。
まあ、とにかくだ。一目惚れしたのだ。俺はあの人に一目ぼれしたのだ。
ふと、一目惚れしたのだ、と口に出してみる。
……。
く、くすぐったい。なんだこのふわっとした響きのセンテンスは。乙女チックの塊みたいな文字列を成しやがって。昨日までの俺に発せる台詞ではない。全く、あのコントのような数十秒間に一体何があったというのか。最早起き上がる気にもなれない今、こうなったらとことん分析してやろう。
ええと、何があったんだったかな。
エレベーターから降りてすぐ、出口に向かおうと右を向きかけたところで鳩尾に長方形が突き刺さったのだ。思うに書類ケースか何かだろうが、いや、死ぬほど痛かった。二度はゴメンだ。その衝撃で体がふたつ折りになり、手に持っていたビニール傘が吹っ飛んでいった。その近くに立っている黒いパンプスの足が真っ先に目に入ったのは覚えている。しかし、全体的にかっちりした服装だった。むしろあれはスーツだろう。ストッキングも履いていたように思う。しかし、まあなんとも美しく引き締まった脚だった。というかモデル並のスタイルだった。差し出された手も、俺を見下ろしていたその顔も、表情も、掛けられた声も、気遣いも、なんというか全体的にこう、好きだ。凄く好みという奴だ。
……あっつ。顔あっつ。これはクーラーをつけるまであるぞ。
しかし、どうもイメージがぼんやりしているのは脳天から突き出していた蛍光灯のせいだろうか。だとしたら俺はもう悲しむことしかできないわけだが。もう一度会えるかどうかもはっきりしない相手の記憶が八割方後光とは、不運にも程がある。
というか暑い。仕方ないから起きよう。
* * *
八月三日(水)
目が覚めて、朝日の中に蛍光灯を見た。見たが、もう動揺しない。間違ってもうっかりふわふわテンションで「一目惚れしたのだ……」などと呟いたりはしない。大丈夫。俺だって同じ過ちを犯すほどの馬鹿ではない。とっとと着替えて朝飯を食うのだ。
たまたま冷蔵庫に残っていた卵を、たまたま少しだけ残っていたバターでびしばし加熱する。ちなみに目玉焼きよりスクランブルエッグ派だ。目玉焼きのいけないところは、何よりミスった時のダメージがデカいところだろう。スクランブルなら失敗などという概念はない。たまたま残っていたほうれん草を適当に切ってぶち込めば、あら不思議まともな料理の出来上がりだ。こればかりは不器用の権化である俺にも安定して作れる。
朝飯は毎日、たまたまあったもののオンパレードになる。そりゃ、どれも俺が買ってきたものの残りではあるのだが、今日この時にこうして残っているのはたまたまだ。偶然とも運命とも言っていいような巡り合わせ。そう、それは、俺とあの人との出会いも。
いやいや。
待て。早まるな。落ち着け。深呼吸。お茶を飲め。そうだ。ふう。やれやれ。
運命、という言葉はいい響きだ。ひどく美しく、そして甘い。頭に浮かんだその瞬間脳みそ全体をバッチリ包み込んで夢を見せる。偶然とは無作為にそうなってしまったこと。こちらがそうしようと思ってもいないのに起こったその偶然は、何か俺やその相手を超えた、大きなものによって定められていたんじゃないか。それは例えば、「運命」と呼ぶべき何か。いやはや、なんと甘い幻想か。麻薬のようだ。しかし、あの長方形レディは決して麻薬のようないかがわしいものではないだろう。何というか、もっと眩しく、輝きがあって、それは言うなれば、俺の前に舞い降りた天使……。
いやいやいやいや。待てって。甘い幻想だよ甘い幻想。
しかし、天使という表現は素晴らしい。天の使い。というか、天から使わされた者。天が何者なのかはよく知らんが、全くいいセンスをしている。ありがとう天。願わくばもう少し蛍光灯を外したポジションに使わして欲しかった。
頬張ったスクランブルエッグは何故かしょっぱかった。よく冷えた麦茶が美味しい季節だ。きっと彼女ならこんな失敗もしないだろうし、こんな麦茶の味わい方も知らないだろう。全く褒められたことではないが、少しだけ嬉しくなる。
* * *
八月四日(木)
もう朝日にも残り物にもスクランブルエッグにも驚きはしない。しかしこれがまた、どうにも楽しくて仕方がなくなってきていることにも気がついた。というか、気がついてしまったと言ってもいい。卵をリズミカルにかき回しながら鼻歌なんぞ歌っている自分に気付いた時には、あまりにも気持ち悪過ぎて流石に一瞬凍りついた。朝っぱらからにやつくクッキング鼻歌童貞……何という不気味さよ……。
卵を犠牲にすることもできずとにかく掻っ込んできたが、心なしかいい出来だった。
腹も満たされたところで家を出たが、実は通学に一時間ほどかかる。とはいえ、最寄駅は家から歩いて五分少々、おまけに最寄駅からは延々座りっぱなしなのだから、特に疲れることはない。稀に少々尻が痛くなるだけだ。課題の本だの論文だの読んでいれば勝手に時は過ぎる。はずだったのだが。
本のページの境目から、目の前に座った女性の脚が、見えたり、見えなかったり。
黒のパンプスから伸びる脚は引き締まっていて、膝頭できゅっともう一段細くなっている。スカートはかなりフォーマルなものだろう、黒の生地は少しばかり厚みがあり、そこから小さな膝が顔を出している。それは、どうもつい最近見た光景にそっくりなような気もする。つい最近違う角度から、それももう少し低い角度から見た、あの時の脚にそっくりなのではないか。もしかしてこの脚、あの長方形レディの。
いや、そんなはずはない。そんなはずはなかろう。そんな偶然があるわけ――――。
待てよ?
だってあの長方形レディは、天から俺に使わされてきたんだろう。それだったら、もう一度俺の目の前に、それも偶然とも呼ぶべき「運命」の力の下に、現れるくらいのことはあったっていいんじゃないか。そうだ。ばっちこい運命。
そっと本を閉じ、ゆっくりと、視線を上げる。
…………。
いや。全然違った。なんだ今のふわふわしたロスタイムは。
* * *
八月五日(金)
なかなかまずいことになってきた気がする。
というのも、一体どうやって大学まで辿り着いたのか全然覚えていない。覚えているのは、朝日、蛍光灯、スクランブルエッグ、天使、細く引き締まった脚、偶然、そして「運命」。これらの文字列の指し示すところは分かっている。例の長方形レディだ。しかし、あまりにも長方形レディが過ぎる。ちょっと何を言っているか分からない。俺の日常は普段と全く変わらない速度と密度で進んでいるのに、その半分近くが長方形レディと化しつつある。これはなかなかまずいのではないか、などと思いつつ、俺はスクランブルエッグを詰め込んだ胃をさすりさすり、ふらふらと構内をほっつき歩いている。
しかしなんだ、自分がこんなに綺麗な大学に通ってたとは知らなかった。まあ、外を歩いているわけだから、当たり前だが暑い。それは重々分かっているのだが、それにしてもこの街路樹の葉の青さよ。それを透かして差し込む日光がこんなに煌めいているとは知らなかった。いや、日々通っていてどうして気付かなかったのだろう。毎日毎日足元ばかり見ていたというわけでもない。前を向いて歩いてはいたのだから、つまりそれは見えていたのだ。見えていたのに気付けなかったということになる。俺の目はちゃんと開いていなかったのだ。あの蛍光灯の光が俺の目を開かせたのだ。全く、人間の感覚器官なんてみんなポンコツだ。チーンと音を立てるエレベーターに等しく、何も考えてはいない。今、俺の目は確かに開かれて、世界の美しさが見えるようになった。
まあ、一番美しいのはあの長方形レディだが。もしかすると、あの人が俺の世界に美しさという魔法の粉的なものを振りかけたのかもしれん。
ん?
ということは、今、長方形レディは俺の中に住んでいるのか。運命の巡り合わせどころか、もう既に甘々ドキドキの同居生活が始まっているというのか。なんならこのまま、あんなイベントやこんなイベントが起こったって何一つおかしくは――――。
おかしいわ。何を口走っているのだ俺。
俺は今、あの人を探している最中なのだ。あの人が運命の名の下に、チーンと音を立てて俺の目の前に現れるのを待っている。それにしても眩しい。脳が酔いそうだ。
ここはどこだ?
* * *
八月六日(土)
ここは大学。今は昼時。朝食はスクランブルエッグ。長方形レディ。学部棟の入口が見えるベンチに腰掛けて早四時間。あの人はまだ来ない。
正直、本当は大学に来てもやることなどないのだ。そもそも俺の夏休みは既に始まっている。夏休みだから講義もなく、サークルや部活には所属していない。来てもやることがないなら、来る意味もない。
いや、あるといえばある。あの人がここの空気を吸っているからだ。とはいえこれも不正確で、より正確に言うならば、「あの人がここの空気を吸っていたのだという記憶があるから、もう一度ここの空気を吸う可能性があるということに望みをかけて、あの人を待っている」ということになる。恐ろしく回りくどくなったが省略すれば恋だ。たったの一文字で事が足りてしまう。恋という言葉もまた尋常ではない密度を孕んだ言葉だ。俺はあの人に鳩尾を突かれてこの方、延々このベンチと家とを往復し続けている。これが全部恋の仕業なのだから堪らない。何といっても俺は一目惚れしているのだ。
しかし、恋によるこの行為は愛なのか?
何かの本で読んだ。恋というのは自分の幸せを中心に据えそこへ相手を合わせようとすること、愛というのは相手の幸せを中心に据えそこへ自分を合わせることを言うのだという。勿論その論理は数ある説明のうちの一つに過ぎないのだろうが、そんなことはどうでもいい。ただ俺はあの長方形レディにもう一度会いたいだけなのだ。俺の天使にして俺の運命。そう思っているこの感情は、あの人にとって害でしかないのではないか。いやそもそも一目惚れなどというものは幻想でしかないのであって、俺はただありもしない幻を見ながら、目が開いたなどと馬鹿げたことを口走りながら踊らされているだけなのではないか。俺のこの気持ちは愛どころか恋ですらないのではないか……。
いや、そんなことはない。そんなことはない。
俺はただ彼女に会いたいのだ。彼女にもう一度会って、あの蛍光灯の光をとっぱらった向こう側にある彼女の姿を見たいのだ。俺はあの天使を俺の目の前に立たせたい。あの優しい声を、気遣いを、手を、脚を、俺の目の前にもう一度さらけ出して欲しい。あわよくばあの天使が俺の手の中に、俺の世界の中に収まるというのなら、もう彼女の痛みなど、苦しみなど、どうだっていい。
ただもう一度。もう一度だけ。
* * *
八月七日(日)
夕日だ。よく燃えるような色だと言われるが、俺は焼けた後の色なのだと思う。木々の葉は焼け、学部棟の白い壁が焼け、俺の網膜が焼け、鼓膜が焼けている。その隙間から、一体いつ入れたのかも分からない古代ギリシャ語だのラテン語だのの用語が、ぐしゃぐしゃにシェイクされて溢れ出していく。
レウィス・エスト・フォルトゥナ。
流れ落ちる汗が頬を撫でるようで、その柔らかい感触に俺は微笑んだ。きっと彼女の指はこんな柔らかさを伴って俺の頬を撫でるだろう。きっと手を繋ぐ時には豆腐でも持つような力加減で挑まねばならない。かなり手に汗をかいてしまう方だが彼女は気にするのだろうか。きっと彼女自身はさらりとした絹のような触り心地の手の平をしているのだ。俺はきっと、その手を何度も慈しむように撫で、最後にはその中央へ接吻するだろう。彼女の気持ちは分からない。ただ、俺はそうしたいからそうする。
レウィス・エスト・フォルトゥナ。
しかし彼女自身がここにいないのでは元も子もない。俺はただふわふわした夢をスクランブルして耳穴から垂れ流すことしかできない。多分そのまま何を考えることもできずに死んでいくだろう。が、そんな状態で死ぬのは癪だ。俺は何としてももう一度彼女に出会わなければならない。それが運命なら。本当に天が彼女を俺の下に使わしたのなら。だから俺はもう一度会うのだ。どれほどのタイムロスが生じようが努力が全て徒労に終わろうが、そんなことはどうでもいい。俺は会わねばならない。きっと彼女にもう一度会ったとき、全ての決着は同時に付く。そんな予感がする。
レウィス・エスト・フォルトゥナ。
この呪文はなんだろう。さっきからずっと俺の半開きの口から溢れ出している。一定のリズムを刻みながら俺の口から地面に滴る。続きがあったような気もするが、もう覚えていない。彼女に会えるならそれでいい。ひょっとしてこの呪文は彼女を呼ぶためのものだっただろうか。分からない。しかしそんな気もする。溢れ出していく言葉は止まらない。
レウィス・エスト・フォルトゥナ。
頼む。もう一度だけ。
レウィス・エスト・フォルトゥナ。
もう一度だけ。