第三十二話 今後
「…………」
――――――。
…………。
「んんっ……」
何度かまばたきを繰り返す。
机……。
左には背の低い茶色の机。
右手を眼前に掲げる。手のひら、手の甲とひっくり返してぼんやり観察する。
「こ……ぁ」
喉が渇きすぎて、上手く声を出せない。
「起きてる……」
その時、感情の読み取りずらい女の声が、宙から耳に降ってくる。
「どこか痛む?」
俺はぼんやりした瞳のまま首をゆっくり横に振り、静かに否定の意を表明する。
「何か飲む?」
今度は頷く。
すると、バタンと冷蔵庫の開閉する音が聞こえた。
「お茶と……大好きな『白光ドリンク』持ってきた」
液体の満ちたコップが口元にそっと寄せられ、俺は差し出されるまま素直に唇をつけて中身を飲む。口内に冷たい、麦茶の味がじんわりと染み渡っていく。
「あ……ああ……んっ、んん……よし」
そうして、喉の調子が良くなったことを発声して確認する。
「光道……今何時だ?」
「十二時十八分三十四秒」
上下左右に視線を巡らし、周囲の状況を観察する。
すると現在、俺は自宅の居間の床で寝っ転がっていたことが判明した。
ふと、一人暮らしの俺に二階建ての一軒家は少し広すぎたか……なんて、どうでもいい考えが思い浮かぶ。
体にかけられていた毛布をどかし、俺は上体を起こす。すると、頭の位置が高くなった途端、角度の問題だったのか眩しい光が目に差し込んできた。
なんか明るいな……この部屋。そんなに光量のある蛍光灯だったっけ?
「って! 外明るっ!」
……十二時は十二時でも、昼の十二時かよ! 記憶の限りだと……時間帯は夕方だったはずだったんだがな。
「光道……お前……学校はどうしたんだ?」
「サボった」
サボったのか……。まあ、もし俺と光道が逆の立場だったとしたら……光道を心配して、俺もサボったかも……しれんな。
よく見ると光道は学校の制服姿であり――おそらく〝学校に行けたら行こう〟……くらいの意思は一応持っていたのだろう。真面目なんだか不真面目なんだか。
「お腹すいている?」
「へっ? あ、ああ……」
「それじゃあ何か作るわ」
特に考えず返事をしたところ、どうしてか光道が料理する流れとなった。
「なあ、光道? 俺、玄関で倒れた後どうなったんだ?」
俺の家は台所と居間が一体となっており……つまり、現在俺が横たわっている場所から台所の様子が窺える作りになっているのである。
そんなわけで、台所で中身すっからかんの我が家の冷蔵庫の中身を覗いたまま、彫像のように固まってしまっている光道の後ろ姿に俺は尋ねた。
そっと冷蔵庫を音もなく閉じてから、彼女は答える。
「そのまま寝てた」
……ね、寝てた?
「そ、そのぉ……俺、死んだと思ったんだけど……」
「私が確認した限りでは、微かだけど息していたし心臓も動いていた。……間違いなく死んでない。『試練』に勝った」
『試練』に……勝った?
試練……試練……と、心の中で噛み締めるように何度か呟いてみる。
「ちょっと買い物してくる」
光道はそう言い残すや……戸惑う俺を置いて、すたすた家を出て行った。
結論――俺は生き残ってしまったらしい。
それどころか、体のどこにも異常は感じられず、あのワニみたいな生き物に噛まれる前の状態と比べ、特にこれといった体調の変化は見受けられない。
正直言って、自分の肉体ながら何がどうなったのか全く理解できない。いやそれ以前に、もとから大した人体の知識を持ち合わせているわけでもないが……。
…………というわけで、ひとまずこれ以上考えるのは保留――棚上げすることとする。
理由は単純。どうせ今の俺がうんうん唸って知恵を絞り、原因究明に取りかかったとしても……到底理解するなど不可能であることは明白だからだ……。
俺は体の調子を確かめるよう慎重に立ち上がる。上着は脱がされていており、一応畳むことを心掛けたのであろう涙ぐましい努力の形跡が残る、くしゃっと丸められた紺色の制服が机の上に置かれていた。
「さて……どうしようかな……」
散々死を覚悟させられた俺としては……何か人生計画が狂わされた気分だ。
とはいえ、もともと将来のことなど普段からほぼ何も考えず暮らしていた俺であるので、そもそも人生計画なんてあってないようなものだったが……。
それに何より――生きているなら、それでいいではないか。
「ひとまず光道を待とう」
今後の方針に関しては、光道が帰って来てから思案することとしよう。
洗面所で顔を洗い、さっぱりした状態で居間に戻った俺は、光道が麦茶の入ったコップと一緒に運んできた、もう一つのコップに入っている白い液体――『白光ドリンク』をぐいっと一気に飲み干した。
ふう……やっぱこれを飲むと落ち着く。




