第二十六話 白中
「そこは出口ではないのだよ…………霧白君」
低い、男の声。
「……あ……あんたは……誰、だ……?」
「忘れても無理はない、霧白君」
淡々とした、起伏のほぼ感じるられない、まるで感情が全く染みこまれていないような声。
「私は…………そうだな『白中』とでも呼んでくれて構わない……短い間となるがね。君との出会いは……『長の部屋』で長の隣に立っていた内の一人が私だ。まあ君は覚えてないかな」
白中――そう名乗る人物は、服装がスタイリッシュというか……少なくとも他の信者とはだいぶ異なっていて、より偉い立場の者という印象を抱かせる……白が基調、深紅と金の装飾の入った服装に身を包んでいた。全て以前『長の部屋』で、目撃したものと同様のものだ。
年齢は三十代前半くらい。身長は俺よりも少し大きく、比較的細身な体型……。
「君に尋ねたいことがあったのだよ、霧白君。だからここまで来てもらった」
「来て……もらった?」
「そうだ霧白君。気付かなかったかね? 君が進むべき道だけ信者の数を薄くしたのだが……。もっとも、別に捕獲されていたとしても……今のように君が私と出会うという結果に変わりはなかったがね」
俺は……逃走して……逃げて逃げて……そんな窮地の中でも目的地へ――自分自身の手で活路を切り開いているつもりだった。
だがそれは……この男に操られていただけだというのか……?
しかしながら、言われてみれば確かに俺も思い当たる節があった。実際、俺はなるべく人の少ない通路を意識して集会所に向かっていたのだ。
…………っ!
そこで……ようやく俺は周囲の状況が不自然であることを認識した。
だ、誰もいない……。
俺と白中という男以外、誰もいないのだ。また、何の音も聞こえてこず、辺りはシーンと深夜のように静まり返っている。
あ、あんなに……あんなにたくさんいたのに…………。
本当なんだ――この男の話は……。
心臓が冷やりとした何かで撫でられたような、奇妙で……ぞっとするような感覚に俺は襲われる。顔はみるみる青ざめていき、言い知れぬ恐怖が全身に行き渡っていく。
どこまで計算されていたんだ……。
…………だが……だが……。
だから……だから、何だというのだ!
結局逃げることに変わりはない。
もはや窓の鍵は開かれた。後はカーテンをずらし、勇気を胸に携えながら外の世界へと思い切って飛び込んでいくだけじゃないか。
「君の瞳はまだ紅いようだね、霧白君」
「…………赤い?」
よくわからぬことを口走りながら、白中は俺の腕を掴んでくる。
「まだ、希望を宿す瞳ということだよ、霧白君。さあ……こっちだ、来たまえ」
もちろん、すぐさま俺は男の腕を拒絶するように振り払ってみせる。
「悪いけど……もう疲れてるんだ。話があるなら千年後くらいにしてくれ。予定は空けとくからさ」
白中はというと、腕を振り払われたことは別に気にしていないとばかりに、涼しげな無表情を維持したままだ。
「どうやら君には、何か隠し手があるようだ……霧白君」
……ここまでずっと走ってきたせいか、いまだに少し興奮状態が醒めきっていないのかもしれない。変に自信がある態度と白中に捉えられてしまったようだ。
俺はここに至るまで、施設内でずっと肩にかけたままだった学生カバンをようやく地面に下ろした。
すると白中はどういうわけか、俺から数歩程後退して距離を図り出す。
「君が何を考えているか、私にはわかるよ霧白君。君は武術に自信があるのだろう? 私は少しばかり君の逃亡劇を見ていた。君の動作は他の人間よりも…………そう……キレだ。キレが違った」
……あんな乱闘に近い状況で、どこから観察していたんだ……この男は?
「一向に構わないよ、霧白君。我々も昔から……最終的に問題を解決する手段として利用してきた」
そう告げるや、白中は自身の手と手を組み合わせ……ぽきっ、ぽきっ、と手を鳴らしてくる。
な、何であんなやる気満々なんだ……。
しかし……俺も腹を括る。
仮に俺がこの目の前にいる人を無視したとしても、勝手に相手から襲いかかってくる……そんな気配がひしひしと俺に伝わってくる。つまり、簡単には逃げられそうにないわけだ。
俺は両手を軽く握って……構える。
ちなみにこれが、初の……戦闘? ……ケンカ? ……とにかく、一騎打ちである。今までずっと一人で『白光流』を練習してきた俺だったが、初めての実戦がこんな危機的状況とは思わなんだ。
アメリカの西部開拓時代のガンマンの決闘とは、こんな緊張感だったのだろうか……。見当違いかもしれないが、ふとそんな考えが脳裏を掠める。とにかく、空気がヒリつくように重い。肌を締め付けるようだ。
俺は油断なく……相手の様子をじろじろと窺う。
白中は、その言動からして戦闘に関して一定の自負を抱いているようだが……何らの構えも取ろうとする素振りを見せず…………棒立ちである。
ただ、相手のタイトな服装の影響もあってか一見すると細身な外見が目立つが、実際は筋肉が程よく全身に備わっている――普段から、それなりに鍛えている肉体であるように思われた。
…………………………。
周囲の空間に、重々しい空気がみるみる充満していく…………。
気息を整えつつ……ごくり、と俺は生唾を飲み込む。
………………。
…………来たっ!




