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夢日記「釜茹で」

作者: 超短編小説家 ちょっぺ〜

 彼が目を覚ますとそこは釜の中だった。釜は沸騰した液体で満たされていて、その中で彼のからだはおでんの大根みたいにぐつぐつと煮えられていた。彼はまだはっきりと生きていた。とりあえず彼は自分のからだを確認してみたが、これといって慌てる理由はないようだった。おかしいなと彼は思った。からだはそこまで熱くない。また痛みもない。というよりも、いつもと変わった感覚はからだのどこにもない。手を動かしてみる。ちゃんと動く。彼はそのまま腕を液体から上げてみる。皮膚はまだしっかりとあるべき場所についていて、どこかを傷付けられた様子もない。彼は無傷だった。そして彼は裸だった。

 からだがまったくの無事だとわかると彼は釜の縁に恐る恐る手を触れてみた。熱くはなかった。おかしいなと思いつつほっとした彼は、今度は釜の縁を思いきり掴んでみた。それでも熱くない。釜から手を離して念のために手の平を見てみるが、火傷の痕はない。

 どういうことだろう?

 彼は湯船から上がるように、ぐつぐつと煮えたぎる釜の中をまたいで抜け出た。そしてしっかりと床の上に立つと、部屋の明かりのもとでもう一度自分のからだを隅々まで点検した。けれどやはり火傷を負っていたり怪我をしているところはなかった。ふと見ると、釜の中はまだぐつぐつと煮えたぎっていて動物の骨らしき物がいくつか浮いていた。彼はもう一度釜の中に手を入れて、その中が本当に熱くなっているのかどうか確かめようという気にはならなかった。素っ裸の彼はまず、何か着る物はないかとあたりを見回した。

 テーブルの上に衣服があり、着てみるとそれは彼の肉体にしっくりきた。確かな記憶はなかったが、彼はそれこそが自分の衣服であることを確信した。

 それにしても、どうして自分はこんなところにいて、しかも服をぜんぶ脱いだ素っ裸の状態だったのだろうかと彼は思った。それから煮えたぎっている釜の中で自分が眠っていたことも不思議に思った。

 そうか、と彼は思い当たった。誰かが僕のことを調理して食べようとしたんだ。釜の中にあった骨は他の食材で、あのまま目を覚まさなければじきに僕もああなっていたのだ。けれど、どうして僕のからだは火傷をひとつも負っていないのだろう? 他の骨になったものたちは助からずにどうして僕だけが助かったのだろう? 考えてみても彼にはわからなかった。それにここへやってくる以前の記憶を辿ろうとしてみたが、彼はそれに関しても何一つ思い出せることはなかった。

 まあいいさ。とにかく僕は助かったんだ。それよりも早くここから移動した方が良いだろう。まだすべての危険が去ったというわけではないのだから、と彼は考えた。

 彼は警戒していた。つい先ほどまで釜の中で煮えられていたのだから当たり前のことかもしれない。でもそこまで恐ろしいという気はなかった。釜茹でにされても火傷ひとつ負っていない自分は、あるいはどこかで無敵の肉体を手に入れたのかもしれないと彼は考えていた。

 部屋の中をぐるっと見回し扉を見つけると、彼は用心しながら(そしてその先に誰もいないことを祈りながら)それをゆっくりと開けた。

 廊下を挟んで玄関のような場所に出た。幸い、そこには誰もいなかった。彼はほっと胸を撫で下ろすと突然、全身から力が抜けてタコみたいにへなへなになって床に座り込んでしまった。釜で茹でられていた影響が今になって身体に現れたのだと彼は思った。それからはもうどうしようもなかった。彼は指の一本すら、自分の意志で動かすことができなくなってしまっていた。すべての感覚が鈍くなっていた。瞼も半分垂れ下がってきている。自分がどうやって息をしているのか、そしてそれがちゃんとできているのかどうかもよくわからなかった。まるで金縛りにあっているみたいだった。けれど、音だけはまだ聞くことができた。何かが彼の方に近付いてくる気配がしていた。衣擦れの、微かな音が聞こえた。彼の首はぐったりと垂れ下がり、床を見落ろしていて瞼は閉じかかっているので、彼のもとに近付いてくるその何かを目で確認することはできなかった。瞼はさらに重くなり、視界はゆっくりと閉じられていく。衣擦れの音はもう今では彼のすぐ側まで来ていた。一瞬、彼の頭の中を恐怖がよぎったが、それはすぐにあきらめの心に取って代わられた。僕にできることはもう何もないさ。どうぞ、好きにすればいい。

 彼はその何かに床の上をずるずると引きずられて前にいた部屋に再び運ばれていった。彼の瞼は閉じきっていてもう何も見えなかった。何かがからだに触れているという感覚もなかった。痛みもなかったし、恐怖もなかった。彼にはただ、ぐつぐつと煮える鍋の音が聞こえるだけだった。

 ぐつぐつ、ぐつぐつ、とまるでジャグジーみたいだなと彼は思った。

 そこで彼ははっと思い当たった。自分はいま風呂場にいるのだ。そうだ。そうに違いない。彼はいま一人で風呂に浸かっていて、そこでうっかり眠り込んでしまっているのだ。彼は湯船の中で眠っている自分の姿を頭の中で強く思い描いた。そして何とか呼吸をしようと、からだを動かそうと、強く自分自身に命令をした。すると、段々と苦しみがよみがえってきた。そしてさらにそれは増していった。忘れていた呼吸の方法を思い出すかのように彼は大きく口を開いて息を吸おうとした。しかしうまくいかなかった。もう一度やってみた。唇がほんの少し動いたような気がした。少しずつ彼のからだにも感覚が戻ってきていた。もう一度、彼は息を吸う自分の姿を想像し、その通りになるようにからだに命令した。ごぼっという泡が弾けるような大きな音がして空気がからだの中に入ってきた。彼は目を覚ました。


 彼が目を覚ますとそこは湯船の中だった。彼の顔は湯船の表面の目の前にあり、彼の唇は湯に半分浸かっていた。彼はすぐにからだを持ち上げて顔を湯から離した。落ち着いて、彼は息をした。腰のあたりにはジャグジー装置の通気口があって、そこから飛び出てくる大小様々な形の泡が彼の腰にごつごつと当たっていた。何度か深呼吸を繰り返し落ち着きを取り戻すと彼はすぐに風呂から上がった。

 浴室から出ると彼はバスタオルを手に取り、それでからだを隅々まで拭き始めた。どこかで誰かがうがいをしていたが、彼は気にも留めなかった。一通りからだを拭き終わると、最後にもう一度髪の毛を乾かそうとして彼は頭からバスタオルを被った。誰かのうがいは、彼が最初にそれ耳にしてからまだ一度も途切れることなく、ごろごろと続いていた。奇妙だと彼は思った。いくら頭を拭いても髪の毛の水分がまるで離れていかないのだ。彼はバスタオルを頭から離そうとした。しかし彼にはできなかった。腕に力が入らない。バスタオルは彼の頭をすっかりと覆い隠し、ぴったりとくっついていた。真っ暗で何も見えない。彼には、誰かがうがいを繰り返す音だけがはっきりと聞こえていた。しまった、と彼は思った。まだ、終わっていないのだ。

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