その56
ノルンは隊長室の窓を見た。黒い雲がこちらに流れているので、夕方にはひと雨くるかもしれない。
「雨、降りそうですね」
「そうだな。見張りには雨具を持っていかせるか」
この間まで普通に交わした会話も、あの日以来まともにしていない。少し覇気がないフォルセティに、ノルンは自分が原因ではないかと責任を感じた。本人に直接聞けば済むのだが、拒絶する空気がこの部屋にある。こんな状態だから彼と時間を共用するのはとても息苦しい。
昼食を誘ったが「俺はいい」と断られたので、ノルンは一人食堂へ向かった。時間帯がずれていたため混雑はなく、すんなり食事をすることができた。閉鎖的な空間といえば大袈裟だが、隊長室は二人だけなので新鮮に感じる。
「ノルン、今ご飯?」
少女の声が上から降ってきたので、顔を上げるとミーミルだった。ピークを過ぎたので、ようやく彼女も昼食にありつけたわけである。彼女は料理を載せたトレーをノルンの向かいに置いて座った。
「久しぶりだね」
「ほんと、最近会わないと思ってたら隊長の補佐役になったんですって?」
「うん」
「いろいろあったから、ちょうどよかったかもね」
「心配掛けてごめん。お見舞いのクッキー、すごく美味しかった」
「わたしが作ったんだもの。当たり前でしょ」
澄まし顔で料理を頬張るミーミルに、母と過ごした日々を思い出す。ユミルが刺繍している傍らでセイムダムが藁を編み、ノルンは二人を見ながら本を読む。裕福だった王女の頃より逃亡の一年が記憶に濃く残っていた。貧しくても穏やかで温かい暮らしが懐かしい。
「ノルン、どうかした?」
「あ、ごめん。ちょっとぼーってしてた」
「まだ具合良くないんじゃない?」
「今日、エルデイルさんの所に行くよ」
彼女の名前が出た途端、ミーミルの表情が一変して険しくなった。
「あのさ、前から聞こうと思ってたんだけど、あの人とどういう関係なの?」
「恩人だよ。ここに入隊させてくれたし、お母様の薬も送ってくれる」
「それだけ?」
「いろいろ助けてもらっている。ぼくは兄弟がいないから、お姉さんってああいう感じなのかな」
妹がいるミーミルは何も言えなくなった。今の段階では、まだ恋愛に発展していないようなので少し安心した。
ー ということは、わたしにまだチャンスがあるってことね。
ほくそ笑むミーミルを、ノルンは奇妙な目で見ていた。
食事が済むと、今度は医務室へ足を向ける。毒矢の件でフォルセティが解毒しているものの、念のため解毒作用のある煎じ茶を処方されていた。そろそろなくなるので、今日は受診も兼ねて受け取りにきたのである。
エルデイルはちょうど午前中の診察を終えたばかりで、昼食もまだだった。出直すと言うノルンを引き留めて、椅子に座らせる。
「具合はどう?」
「お陰さまですっかり良くなりました」
会話の間も彼女の手は休むことなくノルンを触診する。顔に触れられて、体温の温もりに身も心も委ねた。
「もう心配はないわ。治療も終わりね」
「ありがとうございます。あっ、これ母からです」
ノルンは生成り色の封筒を手渡した。丁寧に製紙された白い封筒は高価で、ユミル達に買えるものではない。事情を気にすることなく、エルデイルが封を切ると一枚の紙とハンカチが入っていた。内容は送ってもらった薬でだいぶ体調が良くなった感謝の言葉だった。ハンカチにはコスモスの花が刺繍してある。初めて見た時の感想のまま、美しく繊細な出来だ。
「エルデイルさんを想像して刺繍したそうです」
「私を?」
エルデイルは、派手な容姿と凛とした態度で薔薇に例えられることが多い。男達が差し出す花束もその類いだ。だが、本当の自分は臆病を隠すため、虚勢を張っているだけの小さな人間である。想いを晒して傍にいられなくなるなら、幼馴染みとして隣にいる方がいい。ささやかな願いを胸に秘めているだけの女。だからこそ、コスモスの花言葉を知っていたエルデイルは涙が込み上げそうになる。
「素敵なものをありがとうございますって、お母様に伝えて」
「はい」
彼女はそっと机の引き出しにハンカチを仕舞い、ハーブ茶を淹れてくれた。煎じ茶と違って爽やかな香りが口に広がる。気持ちが和んだところで、気になったあれを聞いてみた。
「エルデイルさんは、隊長をどう思いますか?」
「えっ!?」
彼女は珍しく声が上ずった。ノルンに気付かれるほど、フォルセティへの想いがあからさまだったのだろうか。動揺で心臓が破裂しそうだ。
「ど、どうって?」
「この前、様子がおかしかったから気分転換に手合わせをしてもらったんです」
実力差も承知の上なので、彼に敵わないのも仕方がない。問題はその後で、吹っ飛ばされたノルンの怪我を見て立ちすくんだ。怪我など訓練では日常茶飯事で、ましてや擦り傷などみんな気にも留めない。
「なのに、隊長は真っ青な顔でしばらく動かなかったんです。それ以来、元気がないのでエルデイルさんなら何か知っているかなって思いまして」
胸の内と関係ないと分かり、エルデイルは安堵した。
「心当たりないわ。もし、仕事の悩みならガルーラが知ってるかも」
そういえば、武具屋にも顔を出せとフォルセティが言っていたので、ついでに寄ることにした。
「ガルーラさん、いらっしゃいますか?」
「ノルンか!!」
ガルーラが年寄りとは思えない素早さで奥から出てきた。後ろから、弟子の一人が杓子を持ってついてくる。
「親方、飯は?」
「そんなものあとじゃ。よう来たな、待っておったぞ」
エルデイルに引き続き、ガルーラも昼食を済ませていない間の悪さだ。日を改めるというノルンを必死に引き留める。
「あやつ、ちゃんと伝えたようじゃな。感心感心」
「あやつって隊長ですか?」
「そうじゃ。補佐役とか言いおって、体のいい独り占めじゃろて」
せっかく振ってきたタイミングを逃す手はない。ノルンがフォルセティのことを相談すると、ガルーラも黙って何かを考えている風だ。
「何か心当たりがあるんですか?」
「壁にぶつかったんじゃろ。もっと強くなりたい。いや、もっと強いはずなのに実力が出せない」
両刀遣いを封印しているのに尚も携える二本の剣は、クリムヒルトと自分への戒めを忘れないため。フォルセティ自身が語ったわけではないが、師弟をよく知っているガルーラにはそう思えてならない。
「もっと強いはずなのに実力が出せない......」
ノルンはぼそりと復唱した。
「結局、自分の殻は自分で破らねばならん。今はそっとしておいてやれ」
「分かりました。ありがとうございます」
ぺこり頭を下げて、ノルンは走っていってしまった。
「こりゃ、待たんか!! あいや、行ってしもうたか。わしの所に来てもあやつのことばかり。どうも気に食わん」
ガルーラはぶつぶつ言いながら、また奥へ引っ込んだ。
食堂を通ると、炊事係のリドと出会った。入院食の礼を言うと、藤のかごを渡された。
「ちょうどよかった。今から持っていこうとしていたんだよ」
中身はフォルセティの昼食だった。近頃食欲がないのを気にしていたらしい。
「疲れが出たのかねえ。忙しい人だから無理もないけどねえ」
みんながこんなに気にかけているのに、相談くらいしてくれてもいいのではないか。ノルンは少し淋しかった。




