その49
久々に孫との食事を、ヘズはとても喜んだ。ハールも同じ気持ちでより饒舌になっていく。彼の両親は幼い頃に亡くなり、以来ヘズが親代わりとして育ててきた。小さな古い家に、肩を寄せ合って生活する二人は唯一の家族。そんな彼らに、ノルンは母やヘイムダムを重ねた。
店を出て、ヘズは宿で休みたいと言った。馬車に揺られての長旅は高齢の身に堪えたのだろう。ヘズの相手はハールに任せて、ノルンも宿舎に帰ることにした。自分の役目もここまで、あとは家族水入らずで過ごしてほしい。
ハール達を見送り、ノルンは路地裏を歩いていく。店のガラスに映った姿にはっとした。紛れもなく一年前の自分だった。長い金色の髪を靡かせて、城の廊下を歩いていた幸せだった頃の王女。
国王である父を謀殺され、国を追われて母親達と逃げ回る生活から一年が経った。普通の家庭に生まれていたら運命が変わっただろうか。
ふっと郷愁と哀愁が込み上げる。
ノルンは駅の休憩所で、朝と同じように服を着替えた。ハールの恋人ノーランから、国境騎馬隊のノルンに戻る。あれだけ多くの人がいて、不思議と誰もノルンだと気付かなかった。
「お役御免か?」
いや、一人だけいた。声を掛けてきたフォルセティである。駅を出たところに、愛馬に跨がってこちらを見ていた。
「部隊に帰るなら乗せてやるよ」
何故か断る気がしなくて頷いた。差し伸べる彼の手を掴むと、ぐいと引き揚げられて馬に背に乗る。
「ありがとうございます」
表情は見えないのに、前を向いたフォルセティが笑っているように感じた。
「ハールはどうした?」
「おばあ様を宿まで送っていきました。今夜は同じ部屋に泊まるそうです」
「そうだった。孝行はいいものだ」
『孝行』という言葉がノルンの心に重く響いた。父親に甘えるだけで、孝行らしいことは何一つしてやれなかったのが悔やまれる。ユミルに楽させたい一心で出稼ぎに来たが、却って心配させているのではないか。
部隊までの道のりは大して遠くない。分かれ道を右に行けば部隊というところで、フォルセティが急に馬を走らせた。突然の加速に、ノルンの体が大きく揺れて思わず彼に抱きついた。慌てようが可笑しかったのか笑い声が風に流れていく。
「これは失礼、お嬢さん」
「ひどいな」
ノルンはわざと声を荒げたが、本心は怒っていなかった。驚いた拍子に不安な感情が吹っ飛んでいたからである。フォルセティと話せば元気になれた。方法は手荒く、怒りや励ましで無理矢理活力を見出だされる。
部隊の入り口でノルンが馬から下りた。厩舎へ向かうフォルセティに、「ありがとうございました」と大声で言うと片手を上げて応えた。
翌日の昼過ぎ、ハールは家に帰るヘズを見届けて宿舎に戻ってきた。ヘズからの言付けは、ノルンにくれぐれもよろしくとのころだった。結局、ヘズを騙したままでノルンは罪悪感を抱く。そのことが表情に出たのだろう。「しばらく経ったら別れたとでも言っておくよ」とハールが小さく笑った。
本当に恋人を作れば解決するのに、縁がなければ始まらない。今回、好意を寄せているエルデイルに頼んだ結果、けんもほろろに断られた。いかなる時代も恋愛事情は複雑である。
それから間もなく、立っているだけでじわりと汗が滲む陽気が多くなった。雨季が終わり、夏がやってくるのだ。生地が厚い軍服は風を通さず、紫紺の色は熱を吸収しやすく発散しにくい。軽装は許されないので、スカーフを外して暑さをしのぐしかなかった。昔気質の隊員がいれば「暑さなんざ気力で乗り切れ」と根性論を振りかざすだろうが、平均年齢が若い国境騎馬隊にはそれこそ厚苦しく感じるだろう。
訓練後、皆が汗を流しに井戸へ向かった。ポンプで桶に水を汲み、頭から一気に掛ける。冷たい感覚が全身を駆け抜け、爽快感に男達が奇声を発した。腰にタオルだけ巻く全裸姿に、ノルンは慌てて水汲み場から離れた。
食堂の近くを通り掛かると、食欲を誘う匂いが漂う。周りは、厨房担当の女達が昼食の準備に追われていた。
「おや、ノルン。待ちきれない連中が催促に寄越したのかい?」
ふくよかな中年女性がこれまた大きな鍋を抱えて現れた。
「リドさん、こんにちは」
リドは厨房のリーダーで、隊員達の胃袋を支えている。家庭的でボリュームがあり、なおかつ栄養バランスを考えて、大所帯の食事をほぼ毎日三食作るのだから頭が下がる。
後ろから娘のミーミルが、前が見えないほどの野菜を抱えてやってきた。淡いグリーンのノースリーブが涼しげだ。ノルンが上の方を幾つか取ってやると、彼女と目が合った。
「ノルン!?」
ミーミルは驚いて野菜を落としそうになった。彼女の周りは大人が多い。そこに同い年のノルンがやってきた。絹糸のような金色の髪にすみれ色の大きな瞳、明らかに身近な男達と雰囲気が違う。美少年ノルンは気になる存在だった。だが、フォルセティとの交際事件で心穏やかではない。
「持ってあげるよ」
「いいわよ。わたしの仕事だもん」
「せっかく手伝ってくれるんだから遠慮しない。こう見えてもノルンは男の子なんだから」
「ねえ」とリドが片目を瞑った。ノルンは近くにあったかごに、野菜を半分より多目に移した。リドが一足先に厨房に入り、ノルンとミーミルは一緒に歩いていく。しばらく黙っていたが、ミーミルがやっと口を開いた。
「......隊長とはどう?」
「どうって?」
「だから、その......付き合ってるんでしょ?」
ミーミルが口ごもる。すると、ノルンが深く息を吐いた。
「ミーミルまであんな噂を信じていたの? あれは貴族の令嬢を諦めさせる隊長の作戦なんだ」
「作戦?」
「ぼくだって冗談じゃないって思ったけど、借りがあるから断れなくて」
「じゃあ、ノルンと隊長は深い仲じゃないの?」
ノルンが頷くと、ミーミルの顔が輝いた。
「もちろん、わたしは噂なんてはなから信じていなかったわ。みんなが騒ぐからちょっと気になっただけ」
一気に上機嫌になったミーミルは、スキップし始めた。大きく跳ねる主に耐えきれずこぼれ落ちる野菜を、ノルンは苦笑して拾っていく。
「あ、そうそう。街であなたのことを聞かれたわ」
厨房のテーブルに野菜を置いて、ミームルが言った。わざわざ報告するまでもないのだが、見知らぬ男だったという。港があるので、多少はよそ者が往来するものだ。
「ノルンの熱狂的ファンかもね」
この時は軽んじて聞き流していたが、数日経ってエルデイルが同じことを話すと不気味さを感じた。
「偶然を装っていたけどあれは違うわ」
医者という職業柄、洞察力に優れているので、彼女が言うのだから間違いないだろう。
「ぼくに何の用でしょうか?」
「あなたは容姿がいいから、人買いかあるいはフォルを狙っている者か」
「隊長を?」
エルデイルは笑って「恋人なんでしょ?」と言った。
「エルデイルさん!!」
ノルンが真っ赤な顔で否定する。
「フォルの耳に入れといた方がよくてよ。嫌な予感がするの」
彼女の笑みがふっと消えて真剣な表情になった。




