その40
お母様とセイムダム?
夢うつつに聞こえる男女の声にノルンはそう思った。二人はノルンが寝静まった頃によく話をしていた。生活のこと、ユミルの体調、そして一人娘の将来について。
狭い家にセイムダムの低い声がよく通り、眠りが浅い時は目が覚める。荒らげるのでもなく、ぽつりぽつりと話す声を聴きながらまた眠りにつくのだった。
追憶から醒めて、ぼやけたノルンの視界に天井が見えた。医務室のそれだと気付くのにしばらくかかった。今度はどうしてここにいるのかと考えみる。
ー そういえば隊長がヒルデダンドさんに求婚されて……。
フォルセティにキスされた記憶がじわりと蘇ってきた。本気ならまだしも、断るために初めての貴い接吻を奪われた。借りを返すいい機会だと言い含められて甘んじた自身が情けない一方、弱味につけこむフォルセティが腹立たしい。
ノルンは異性との交際はおろか初恋もまだなのだ。一気に飛び越えた体験に、頭は怒りでいっぱいなのになぜか心臓は早打ちしている。紅潮した顔でまだ生々しい感触が残る唇をそっと指先でなぞった。
とにかく、病気でもないのに医務室のベッドをいつまでも占領しておくわけにいかない。ノルンが起き上がり帰ろうとした時だった。
ドアが少しだけ開いて白衣のエルデイルが覗いた。
「あら、気がついたのね」
「はい」
「もう一人のお嬢様も失神しちゃって、今日はなんて日なのかしら」
『もう一人』が誰なのかすぐ分かった。意中の相手が目の前で他人とキスしたのだ。生粋のお嬢様であるヒルデダンドが卒倒するもの無理はない。該当者のノルンは力なく「すみません」と謝った。
「とんだとばっちりね」
こうなった経緯を知っているのだろう、エルデイルが苦笑した。
「それで、ヒルデダンドさんは?」
「あなたより少し前に意識が戻って帰ったわ。まあ、あんな所見せられたら無理ないけど」
恋愛に免疫のない二人にとって、天地がひっくり返るほどの衝撃だったのは間違いない。
「フォルも罪作りなやつよね。ご令嬢を同時に二人も卒倒させるなんて」
ノルン達の胸中をエルデイルが代弁する。ノルンは今度こそ立ち上がって身なりを整えた。
「もう行くの?」
「任務があります。ところで、ぼくはどのくらい気を失っていたんですか?」
「三時間ってとこかしら。お大事に」
ノルンは一礼して医務室を出ていった。
フォルセティに原因があるとはいえ、任務に復帰する報告はしなければならないだろう。ノルンは重い足取りで隊長室へ向かった。
途中、ノルンは隊員たちの視線を感じた。国境騎馬隊の暗黙のルールは、人の事情に立ち入らない。だが、ここで起きた出来事は範疇ではないようだ。
好奇の目に晒されて、ようやく隊長室のドアをノックすると中から入るよう指示された。顔を上げたフォルセティは目の前の部下に罰悪く頭を掻いた。
「もう大丈夫か?」
「はい。そもそも病気ではないので、いつまでも任務を放棄するわけにいきません」
棘のある口調に、フォルセティが苦笑する。
「そう怒るな。俺だってあれくらいで失神するとは思わなかったんだ」
「あれくらい!? ぼくにとっては一大事です!!」
「ひょっとして初めてだったのか?」
耳まで真っ赤にして睨むノルンに、フォルセティは絶句した。ノルンが貴族の出身だと忘れていたのだ。産まれたときから清純に育てられてきたと、城に仕えたことがある彼には想像できる。一緒にいる時間が長くなりつい庶民扱いしてしまった。
「男同士なんて数に入らん。気にするな」
フォルセティは慌てて取り繕うように付け足す。本当に男ならよかった、だがノルンは女でそちらの方が大問題だった。ファーストキスの事実はどう足掻いても変わらない、だったらせめて周囲の目をどうにかしてもらいたい。
「誤解だと隊員達におっしゃってください」
「俺に免じて今日は休んでいい。帰っていいぞ」
「隊長!!」
ノルンは食い下がったが、彼は聞く耳を持たんとばかりに書類の山に視線を落とす。ノルンは一礼して渋々退散するしかなかった。
間を空かずノックする音にフォルセティは息を吐いた。ノルンが納得いかず戻ってきたのかとドアを開けると、エルデイルが立っていた。
「なんだ、お前か」
「なによ」
「いや、なんでもない」
フォルセティは体を開けて部屋に通した。エルデイル自身、隊長室へ入るのは久しぶりである。
「何か用か?」
「どうしてノルンなの?」
突然の質問に、彼が目を丸くする。
「ヒルデダンドを欺くなら誰でもよかったじゃない?」
エルデイルはノルンが女だと知っているからこそ心境は複雑だった。いや、本音は嫉妬だ。自分を選んでくれたら、一瞬でも私の名前が浮かばなかったのか、と。
フォルセティはいつもの軽い調子で返そうかと思ったが口を噤んだ。彼女の目が笑っていない。たまたまそこにいたのがノルンだからではない、もっと理由は別にあることを彼女は知らない。
「ケルムトでできるか? どうせするなら美人がいいだろ?」
フォルセティは壁に掛けていた上着を羽織った。
「見回りの時間だ。失礼」
「ほんと、あなたって節操がないわね」
詰る彼女を残して隊長室を後にした。
ノルンは宿舎へ戻って自分のベッドで寝転んだ。あの様子だと身の潔白を証明するのは時間がかかりそうだ。そこへハール達が帰ってくる。
「よお、お帰り」
ハールはいつも通りに接してくれたが、ほかの隊員は目も合わせない。
「任務を放ってごめん」
「いいってことよ。あ、これは貸しだからな」
「うん。今度返すよ」
「頼むぜ」とハールは笑いながら着替え始めたので、目のやり場に困って背を向けた。
「そう言えば、お前と隊長はいい仲らしいな」
歯に衣着せぬ台詞に、部屋の空気が凍りついた。
「あ、あれは誤解で……」
「恋愛は自由だ。俺は気にしないぜ」
ハールはエルデイルに好意を抱いている。彼女がフォルセティを慕っているのはなんとなく知っていたので、ライバルが減って大歓迎なのだ。たとえそれがイレギュラーでも。
「男所帯だから珍しくないさ。隊長が相手ならお前に手を出すやつもいなくなるだろうし」
「え?」
ハールの言葉にノルンは瞬きをした。この間、不届きな隊員達に襲われかけたのを思い出した。そこまで考慮していたのか。
ー まさか……。そんなはずはない。
「とくかく頑張れ。相手に不足なしだ」
不足どころか不満だらけだ。
隊長と部下のロマンスは密かにかつ迅速に部隊を駆け回った。この間も食堂へ行く途中、ノルンとフォルセティがばったり出会した。ノルンが敬礼して相手も返す、形式的な挨拶を交わすとハールに肘で小突かれた。
「何か言えよ。『お元気ですか?』とかさ」
「三日前に会ったばかりだよ」
「これだからお坊っちゃまは困るんだよなあ」
仕方ないとハールが間に入る。
「隊長、うちのノルンをよろしくお願いします。ふつつか者ですが、いろいろと教えておきますので」
「わっ、バカ!! 何を言い出すんだ!?」
ノルンは穴があったら今すぐ入りたかった。




