その4
エルデイルが案内した宿は、先ほどノルンをけんもほろろに断った所だった。追い出したはずの小汚い少年がのこのこ現れたものだから、主は血相を変えてフロントから飛び出した。
「お前、何しに来た!?」
今にも掴みかからんばかりの主に、エルデイルが割って入って数枚の札をちらつかせる。
「この子は私の連れよ。もちろん宿代は二人分払うわ」
すると、彼は態度をがらりと変えて笑顔で代金を受け取った。ご丁寧に手もみまでしている。
「エルデイル様がそうおっしゃるならどうぞ」
「どうも」
エルデイルがすまし顔でさっさと二階へ上がっていったので、ノルンもあとをついていった。エルデイルは、一番奥にある部屋の鍵を開けると体を開けて招き入れる。
「まずはお風呂ね。湯舟にお湯を溜めるから座ってて」
「ありがとうございます」
エルデイルは軽く笑って浴室へ向かう。湯が入る音がして、戻ってきた彼女はノルンにコーヒーを差し出した。
「そういえば、あなたの名前聞いてなかったわね」
「ノルンです」
エルデイルが覗きこむように顔を寄せたので、ノルンは思わずのけ反った。
「可愛い名前って言ったら、男の子に失礼かしら?」
意味深な笑みを浮かべる彼女に、ノルンは心の中まで覗かれている気がした。
「ノルンはどうしてこの町へ来たの? まさか国境騎馬隊に入りたいんじゃないでしょうね」
「はい。その通りです」
「ああ、やっぱり」と大きなため息をついて肩を竦める。この話をすると大抵の者達が呆れるで、彼女の反応も想定内だ。
「ぼくじゃ無理でしょうか?」
「どうかしら? あいつ次第だと思うけど?」
「あいつ?」
「そろそろお湯が溜まる頃ね。ゆっくり入ってらっしゃい」
ノルンを浴室へ促したので結局、あいつか誰かは教えてくれなかった。
「ああ、気持ちいい」
久しぶりに風呂に入って、汚れと疲れが取れて身も心もさっぱりする。あまりの解放感に、緊張感も吹き飛んで油断した時に事件は起きた。
「よかったらこのバスローブ……」と、エルデイルが浴室へ入ってきたのだ。そして、全裸のノルンと鉢合わせになったエルデイルは唖然とする。
滑らかな曲線で形どられた体と胸の膨らみ、男とばかり思っていた人物が自分と同じ女だったのだ。
全身が真っ赤に染まったノルンと目を白黒させるエルデイル。二人は互いに身動きすらできずにいた。
「あら、ごめんなさい。言っておくけどノックはしたわよ」
先に口を開いたのはエルデイルの方で、ノルンが慌ててバスタオルで体を隠す。
「見ましたか!?」
「ええ、まあ」
切羽詰まった表情のノルンに対して、エルデイルは曖昧に答えた。そのことが余計ノルンを混乱させて狼狽える。
「とにかく服を着なさい。話はそれからよ」
冷静なアドバイスに、ノルンは従うしかなかった。
しばらくして、服を着たノルンが登場するとエルデイルは「へえ」と感嘆の声を漏らした。そこには薄汚れた少年の姿はなく、気品ある美少女がいた。金色の髪が濡れているせいか、出会った頃より少し幼く見える。勝ち気なすみれ色の瞳は不安に揺れていた。
「あの……、このことは誰にも言わないと約束してください」
「もし、嫌だと言ったら?」
エルデイルが腕を組んで見据えると、不意に首筋に短剣が突き立てられる。握っているのはノルンだった。少女の『ノルン』はすなわち王女を意味する。臣下の謀略によって国を追われ、狙われている身としては、この秘密を知る者は存在してはならないのだ。
「あなたを生かしておくわけにはいきません」
「私を殺すの?」
この危機的状況にも、エルデイルは動じる様子がない。落ち着き払った態度に、脅しでないことを強調させるためにぐっと刃を近づけた。だが、子ウサギさえ情けをかけるノルンである。礼とはいえ、親身になってくれたこの女性を手に掛けることが躊躇われた。そんな彼女の心を見透かしたように、エルデイルがふっと笑う。
「あなたに私は殺せないわ」
「ぼくは本気だ」
「だったら、なんで私の鞄を取り返してくれたの? 本当に非情な人なら見て見ぬ振りもできたんじゃなくて?」
虚を衝かれて言葉が出ない。あの時は考えるよりも先に体が動いてしまったのだ。
「それは……」
項垂れると同時に、エルデイルの首から短剣が離れていく。
-やっぱり、私の見立ては正しかったわ。
短剣を握っている手に、エルデイルはそっと自身の手を重ねた。上目遣いで見る瞳に、やはり殺気の色はない。
「誰にも言わないから安心して」
穏やかな笑顔に優しい口調が、母ユミルを彷彿とさせた。
- この人を信じてみよう。
エルデイルが約束を守るという根拠はどこにもないが、何故か悪い人物には思えない。
「でも、どうして男のふりして国境騎馬隊を希望するわけ? やっぱりお金?」
押し黙った間が答えだった。彼女の容姿からさぞ高貴な生まれかもしれない、そして何らかの事情で庶民の、いやそれ以下の暮らしに身を落とす羽目になったとしたら……。
- 詮索は無用ね。誇りはまだ失っていないみたいだし。
証拠に、ノルンの瞳は輝きを失っていなかった。
ノルンはぽつりぽつりと事情を話し始める。無理がたたって母親が体を壊したこと、住んでいる土地が貧困で苦しんでいること、そしていつも護ってくれる人物に恩返しがしたいこと。
「もっと強くなって、今度はぼくが護ってあげたいんです」
握った拳にぐっと力がこめるノルンに、エルデイルはニコッと笑った。
「わかったわ。協力してあげる」
「本当ですか!?」
正直心細かったノルンは、この言葉に見方を得た気持ちになった。
「ただし、私の頼みも聞いてくれるかしら?」
「え?」
意外な申し出に、ノルンの表情が引き締まる。
「なんでしょうか」
「そんな怖い顔しないで。私も連れて行ってくれるかしら?」
「連れていくって国境騎馬隊にですか?」
「ええ、そうよ。一緒に行けば何かと役に立つわよ」
片目を瞑るエルデイルに首を傾げた。
「あなたは一体何者なんですか?」
「私はただの医者だけど、国境騎馬隊に知り合いがいるの。そいつに頼めばなんとかなるかもよ」
医者にしてはまだ若いが頼もしい限りである。
「さてと、明日に備えて腹ごしらえね。食堂へ行きましょうか」
エルデイルは、ノルンの返事も待たずにさっさと部屋を出ていった。
宿屋の近くにある食堂は、夕食時と相なってほぼ満席状態だ。店の隅にようやく二人分の席が空きそこへ腰掛ける。
注文を取りに来たウエイターが、エルデイルを見て顔が輝いた。
「やあ、エルデイル。いつ帰って来たんだい?」
「昨日よ。ここは相変わらずがめついわね」
「そうそう変わらんさ。で、こちらの可愛い坊やは君の恋人かい?」
「そう見える?」
「違います!!」
ウエイターが笑いながらこちらを見たので、ノルンは慌てて訂正する。
「ここは俺と親父の奢りだ。見繕って持ってくるよ」
「じゃあ、遠慮なく」
「ごゆっくり」とノルンの肩を軽く叩いて、ウエイターはカウンターへ戻って行った。
「彼の父親は私の患者だったの」
「へえ。エルデイルさんってすごいなあ」
「だから言ったでしょ? 何かと役に立つって」
人は見かけによらないと、ノルンはつくづく痛感した。