その35 鎮魂歌《レクイエム》2
少年は母親の手を引っ張るとノルンの方へ引き返してきた。
「ママ、見て!! 国境騎馬隊のお兄ちゃんだよ」
「まあ!! 若くて綺麗な方ね」
さぞかし屈強の騎士を想像していたに違いない。母親の素直な感想に、ノルンは気恥ずかしそうに頭を掻いた。尊敬の眼差しの親子にますます立つ瀬がない。少年はキラキラした瞳で見上げた。
「ぼくも大きくなったら国境騎馬隊に入るんだ」
「ずいぶんものず……ん、んーっ!!」
「物好きね」と言おうとしたミーミルの口を、ノルンが素早く塞いだ。少年の夢を壊したくないのもあるが、ただでさえいい噂を聞かない昨今、貴重な人材を失いたくない。
親子が向ける怪訝な視線に、ノルンは真っ赤な顔で咳払いした。
「待ってるよ」
少年は敬礼の真似して、今度こそ母親に手を引かれて去っていった。
あれから二日経ち、町は流行り病の患者がいるという噂で持ちきりになった。やがて、噂が事実だと判明するとたちまちパニックになり、事態の収拾に自警団が乗り出すも治まらない。国境騎馬隊が出向いたのはさらに三日経ったあとだった。
エルデイルに同行したノルン達は、宿の主人の案内で患者がいる部屋へ向かった。宿泊客がおらず閑散とした廊下を歩いていく。
「ご覧のとおり、客がみんな逃げて商売あがったりですわ」
主人はやり場のない怒りをノルン達にこぼした。患者の部屋へ近づくにつれて薄暗くなってきたのは、窓がなく陽の光が届かないせいだった。元々物置として使われている部屋で、伝染を恐れて隔離したらしくとても病人の部屋とは思えない劣悪な環境だ。
非人道的な待遇にエルデイルが主人を睨んだ。
「ここに住まわすだけでも有り難い話だ。お役御免なら仕事に戻りたいんですけどね」
「客なんて一人もいないじゃないか」
ノルンの大きな独り言に、主人は肩を竦めて足早に去っていった。エルデイルがドアをノックすると、中からか細い女の声が返事をした。少しだけ開いた隙間から見えた人物にノルンが叫んだ。
「あなたは花祭りの!?」
女もわかったようで少しだけ目を見開いた。花祭りで出会った時よりひどく憔悴しきった様子である。
「あなた、知り合い?」
エルデイルが訊いた。
「花祭りで会ったんです。まさか、流行り病の患者って!?」
ノルンの問いに女は黙って体を開けた。かび臭さが鼻をつく部屋の隅にあの少年がいた。板張りの床に薄汚れたマットレスの上で息も絶え絶え、出会った頃と変わり果てた姿にノルンは言葉を失う。
エルデイルは聴診器を当てるため、少年の服を脱がせた。身体中に広がった赤い斑点に、ハール達も不謹慎ながらつい顔をしかめてしまった。
どのくらい時間が過ぎただろうか。慎重に診察していたエルデイルが険しい表情でこちらを見た。
「やっぱり流行り病なんですか?」
ノルンが訊くと、エルデイルは首を横に小さく振った。
「高熱に伴う発疹。よく似ている症状だけど違うわ。最初は風邪か何かで熱が出たのね。発疹が膿んでさらに高熱を引き起こしたんじゃないかしら」
エルデイルは若くて容姿もらしくないが腕はいい。
「熱が下がれば助かるんですか!?」」
母親の弱々しい瞳にわずかな希望の色が灯った。エルデイル無念そうに大きく首を横振る。
「もう少し早く治療をしてれば可能性はあったわ」
残酷な結果に母親は泣き崩れた。
少年に異変が起きたのは花祭りの翌日だった。早朝、母親は少年の荒い息で目が覚めた。隣のベッドへ駆け寄り我が子の額に手を当てて熱さに驚く。母親は慌てて宿の主人を呼び、主人は医者に知らせに走った。
まもなく医者がやってきて少年を診察し始めた。
「流行り病かもしれんな」
その患者を診たことがなかったが、身体中に散らばった赤い斑点、高熱が仲間内で話していた症状によく似ていた。この病気に有効な治療がないため、その場しのぎの解熱剤を処するしかなかったのである
。あとから考えれば、付き添っていた母親にそれらしき症状が表れなかったのに気付くべきだった。
それからの町人の態度は一変して、母子を客室から追い出すと物置に隔離したのだった。
町医者を責める言葉を並べる母親に、エルデイルは天を仰ぐ。仲間として庇うわけではないが、エルデイルは町医者の誤診を責める気になれなかった。決して彼に悪意はなかったはずだ。経験と知識が足りず招いた誤診だが、人の命を預かる医者には許されない過ちである。
各地を廻り様々な患者を診察してきたエルデイルだからこそ流行り病との違いを見抜いた。もし、町医者の立場だったら、恐らく同じ診断を下していたかもしれない。
そんな彼女の迷いを感じ取ったのか、母親の怒りの矛先がエルデイルに向けられた。
「どうして、もっと早く気付いてくれなかったんですか!?」
「無茶言わないでくれ。エルデイルさんだって患者のために駆けずり回って……」
弁護するハールをエルデイルが目で制する。どんなにこちらの事情を話したところで、激昂する母親の心に入ってこない。エルデイルも町医者と同罪とみなしている。
「申し訳ありませんでした」
彼女が深々と頭を下げた。義務ではなく心からの謝罪だった。彼女に非はないことを母親もわかっているからこそ、余計悲しみを深くさせた。
あれからすぐに少年はわずか十歳という短い命を閉じた。父親が待つ故郷へ連れて帰るため、町の外れで火葬が行われた。母親は泣き腫らした真っ赤な目でその様子を眺めている。ノルンはふっとユミルを思い出した。夫である国王が死んで嘆き悲しむ姿が重なる。
ノルンの隣にエルデイルが来た。いつも明るい彼女が唇を噛み締めて呵責に耐えている。医者として見せる初めての顔だった。
「誰が悪いわけでもないのにな」
ぼそりと呟いたハールの言葉に、ノルンは静かに息を吸って歌い始めた。あまりにも突然の出来事に、一同は一斉にノルンに注目した。しばらく呆気にとられていたが、のびやかで透き通った歌声に不謹慎だと眉を潜める者はいない。それだけ人々の心に染みこんでいくのだ。
声楽は母ユミルが得意で、よくノルンも一緒に歌っていた。その中にあった鎮魂歌は、国のために死んでいく者達への手向けだと今になって理解した。
まさしく死者の魂を慰める歌に、母親の目から涙がこぼれる。啜り泣く人々に交じり、ノルンは涙せず大きな声で歌い続けた。
ぼくも大きくなったら国境騎馬隊に入るんだ。
キラキラした瞳で言う少年の顔が浮かんだ。ほんのわずかな出会いが、こんなに悲しいものと変わってしまった無念さが胸を打つ。
ー 安らかに眠って。
ノルンは歌にそう託した。
ノルンの歌声は風に乗って部隊の隊長室まで届き、書類にサインをしていたフォルセティの手が止まった。
近衛隊にいた頃、何度か聞いた歌に耳を済ます。
ー 鎮魂歌……、あいつか歌っているのか。
他の土地から来た少年が流行り病の疑いがあるという報告は聞いている。恐らく命尽きたのだろう。フォルセティはエルデイルを思うと胸が痛かった。普段はどんな重傷でも平気な顔で治療するくせに『死』に対しては臆病だった。
ノルンの荘厳な歌声は死者だけでなく、傷ついた人々の魂を鎮めるのだった。




