その3 ―女医者エルデイル―
この日は朝になってもノルンが起きてこなかった。朝が早い馬の世話に遅れないようにするのだが、時間になっても姿を現さない。ノックをしても返事がないので、娘の部屋へ入るともぬけの殻だった。ユミルが辺りを見渡すと、机の上に置かれた一枚の紙を見つけた。それは手紙のようで、しばらく黙読していた彼女の顔がみるみる青ざめる。
「ヘイムダム!! ヘイムダム!!」
裏庭で薪割りをしていたヘイムダムの元へ、ユミルが血相を変えてやってきた。
「どうかなさいましたか?」
「ノルンを見なかった!?」
「いいえ。今朝は一度もお会いしておりません。馬の世話に出掛けたのでは?」
ユミルは首を横に振り、先ほどの手紙を差し出す。読んでもいいかと尋ねるヘイムダムに頷いた。
『お母様、ヘイムダムへ
何も言わずに旅へ出たことをお許しください。いい働き口が見つかったのでそこへ行ってみたいと思います。落ち着いたら必ず連絡するので心配しないで。
ノルンより』
読み終えたヘイムダムは低く唸った。型にはまった美しい文字はまさしくノルン本人に間違いない。
-それにしても思い切ったことを……。
仮にも一国の王女だったノルンが、切羽詰まった生活を見兼ねて出稼ぎに行こうとは誰が考えただろうか。否、思い当たる節はいくつかあった。ここ数日、弓矢や身の回り品の補修に余念がなかったり、西の国の話を聞きたがったり。ただの好奇心と深く追究しなかったヘイムダムは臍を噛む。
「どうしましょう」
ユミルは不安げに訊いた。
「ノルン様は嘘を申しません。連絡があるまで待ちましょう」
「そんな!! もし、あの子にもしものことがあったら……」
これまで隠し事などなかった娘が、初めて母親に黙って家を出た。この事実がユミルをひどく動揺させて、頭に浮かぶのは最悪の事態のみである。
そんなユミルをヘイムダムは穏やかな口調で宥めた。
「ノルン様は気丈な方でございます。それに弓術と護身術も学んでおられます」
いくら気丈と言っても所詮は女で子どもである。大の男がほんの少し本気を出せば、到底ノルンは敵わない。危険を冒してまで稼ごうとする娘に、追い込んだのは自分のせいだとユミルはむせび泣くのだった。
一方ノルンは、あれから一週間経つがまだ穀物に埋もれて馬車に揺られていた。出発した当初は期待と希望に胸を膨らませていたが、二日三日と経つにつれてその気持ちも萎えてくる。野宿をすれば追いはぎに襲わるし、馬車に乗せてもらえば言い寄られるし何度も危険な目に遭った。世間知らずで器量よしノルンは絶好のカモというわけだ。それでも無事でいられたのは、ヘイムダムが護身術を教えてくれたからであろう。
大国一の騎士が命懸けで守ってくれたお陰で、ノルンとユミルはこうして生き長らえている。つくづく彼の偉大さと自分の無力さを痛感した。
「坊や、そろそろ着くぞ」
老人の声がノルンを現実へ引き戻した。彼が指差す方向にあの街が見えてくる。
「本当に行くのかね?」
事情を聞いていた老人が心配そうに尋ねた。
「はい」と力強く返事をするノルンに、なにを言っても無駄と悟った老人がジャガイモが入っている袋を手渡した。
「元気でな。少しだが持っていきなさい」
「ありがとうございました。おじいさんもお元気で」
ノルンはひょいと馬車を降りると深々と頭を下げる。砂埃を立てて去っていく馬車が視界から消えると、ノルンは「よいしょ」とずっしりと重い鞄のひもを肩にかけて歩き出した。
『グレイプニル』
それが国境騎馬隊がある国の名だ。整然とした街並み、規則正しく敷き詰められた石畳、行き交う人々。噂では荒んだ印象だったが、ノルンが住んでいた土地より活気がある。早速志願したいところだが、着いた頃には日が傾き辺りは夕暮れに包まれていた。
ノルンは母手作りの財布を取り出す。さすが刺繍が得意だけあって、鮮やかな花々をあしらっている見事な出来だが、肝心の金は底を尽きて宿代すら残っていない状況に途方に暮れた。
―どうしよう……。
見知らぬ土地で頼る人もいない。今までは常に誰かしら傍にいたから、こんな心細い思いをしたのは初めてだった。
だが、いつまでもくよくよはしていられない。暗くならないうちに寝床を確保しなければと行動に移した。
手始めに近くの宿を訪ねると、主は長旅で薄汚れたノルンに眉を顰める。
「あの、今夜だけ泊めて頂けませんか?」
「金はあるのかい?」
「……いえ。納屋でも物置でもどこでも構いませんから」
「冗談じゃない。金がないならとっとと出て行ってくれ」
主は、入れ違いでやってきた旅人に愛想をふりまきながら手で追い払う仕草をした。それでもノルンは一礼して宿を去っていく。
本来の気品ある美しい姿を見れば周りの目も変わるかも知れないが、風呂も入れないのでは仕方がないことだった。
こうして、何軒も断られていよいよ野宿かと覚悟を決めた時である。
「誰か、そいつを捕まえてー!!」
怒号にも似た女の叫び声でノルンが振り向くと、物凄いスピードで駆け抜ける男がいた。小脇に革の鞄を抱えて、石畳に足を取られながらこちらへ向かってくる。
「ちょっと待ちなさいよ!!」
後ろから長い髪を振り乱して追い掛ける若い女に、皆見守るだけだ。男が通り過ぎると、ノルンは先ほど老人から貰ったジャガイモを取り出した。
狙い定めて投げつけると、見事男の後頭部に命中!!
一瞬意識が飛んだ男がもんどりうったところへ、あの女が追いついて掴みかかった。
「あんた、どういうつもり!?」
胸ぐらを掴んでめいいっぱい揺するものだから、男の首は今にももげて飛んでいきそうだ。ジャガイモをぶつけられた挙げ句に女に上体を揺すられて、脳みそがシェイクされるのではノルンは本気で心配した。
「た、助けてくれ……」と、弱々しい声に、到着した自警団員が慌てて止めに入る。
「もうそのあたりで勘弁してやってくれませんか? あとは我々がちゃんと罰しますので」
盗られた鞄を女に渡すと「あら、そう?」と呆気なく解放した。よほど大事な鞄らしく、手元に戻ったら犯人などどうでもいい感じである。男が連行されるのを見届けて、初めてノルンと女はお互いを見た。歳は二十代半ば、切れ長の瞳に薄い唇で髪こそ乱れているが知的美人といったところか。
「鞄を取り返してくれてありがとう」
「大したことは何も」
「大したことよ!! この鞄は命の次に大事なの。お礼がしたいんだけど何がいいかしら?」
「礼はいりません」
「そんなこと言わないで、ね?」
急に言われても早々思いつくものでもない。だが、このままではいつまでも押し問答が続きそうな気配だ。
「あなた、旅してるの? 宿はある?」
「え?」
「その様子じゃまだみたいね。まあ、小汚い格好だから無理もないけど」
初対面なのにズケズケと核心をついてくる、今まで周りにいなかったタイプにノルンは呆気にとられる。
「私の宿が近くにあるんだけど、来ない?」
長旅ですっかり警戒深くなってしまい躊躇っていると、「やだ、取って食べたりしないわよ」と女は苦笑した。
「断ってもいいけど、今夜は雨が降るから野宿はきついんじゃないかなあ」
そう言われてノルンに選択の余地がない。「お願いします」と小声で頼むと、女は意地悪く笑って自己紹介した。
「私はエルデイル。以後お見知りおきを」