その20
エルデイルから風呂場を借りて、さっぱりしたノルンは宿舎へ戻った。そこでは主役のノルンを差し置いて祝勝会で盛り上がっていた。急な宴会にもかかわらず酒や料理は準備万端整っているので、ノルンは呆れるやら感心するやら。
皆が酒を飲むなか、ノルンはぶどう酒を飲んでいるとハールが酒臭い顔を近づけた。
「おいおい、今夜くらいは酒を飲めよ」
「ぼくはこれから歩哨なんだ」
「まじかよ!? お前もついてないなあ」
「運が悪い」とか「気の毒」とか同情する声が上がっても、誰一人「代わる」と言う者はいない。結局、歩哨の時間となったノルンは宴もたけなわの部屋をあとにするのだった。
ノルンが見張り台に登ると人影を見つけた。そっと近づくとフォルセティで夜空を見上げている。満月で狼眼が黄金に輝き、まるで狼が遠吠えをしているようだった。
彼が気配に気付いて振り向いた。
「今夜はお前が歩哨だったのか」
「ここで何をしているんですか?」
「夜風が気持ちいいな」
答えになっていないが、確かにほどよく冷たく火照った身体に心地よい。
「初陣のあとに歩哨とはご苦労なこった。誰が付けたんだか」
「これって隊長が決めるんですよね?」
「あー、そういえばそうだな」
じろりと睨むノルンに、フォルセティは頭を掻いて苦笑いをした。
そして二人の間に沈黙が流れると、先ほどまで戦いが嘘のように全ての音が闇に吸収されて静まり返る。
ノルンは手すりに身を乗り出して、眼下に広がる景色を眺めた。月の光に照らされた森を見ていると王女だった頃を思い出す。父と母と三人でよく月見をしたものだ。
心を惑わす夜がノルンを感傷的にさせていく。
フォルセティが隣にいるノルンを横目で見た。金色の髪は暗がりでも輝いているが、紫の瞳はどこか悲しげだった。初陣で思う所があったのか、それとももっと深い意味があるのか。
フォルセティは訊きたい衝動をぐっと胸の奥へ抑え込んだ。国境騎馬隊に来る者はそれぞれ事情を抱えている。だから、皆には互いを干渉するなと言い含めているのに
- 隊長の俺が破ってどうするんだよ。
自身のいい加減さに嫌気が差す。詫びというわけではないが、歩哨を代わると申し出たらノルンは首を横に振った。
「ぼくは大丈夫です。隊長こそ休んでください」
「いいから」
「嫌です」
「ここ狭いんだから早く降りろ」
「絶対に降りません」
押し問答が続くなか、ノルンの瞳にいつもの勝気な光が戻ってきた。フォルセティは盛大なため息をついて、「居眠りするなよ」と言い残して見張り台を降りていく。
彼が去るとまた静寂がノルンを包み込む。聞こえるのは風で揺れる木々の音。そのあと訪れるのは初陣の余韻だった。自身が放った矢で誰かが死んだかもしれない、今になって体が震えて止まらない。
そして、思い出すのは壮絶な父の死。
あらゆる箇所から血が噴き出し悶絶して死んでいく王に立ち尽くすノルン。その腕をヘイムダムが引っ張り走り出てやっと我に返った。涙で霞む遠ざかる亡骸をあとにして、ノルン達三人の旅が始め待ったのだ。
- こんなみっともないところ、隊長に見られなくて良かった。
歩哨を代わってもらわなかった選択に安堵した。
フォルセティはしばらく見張り台を見上げていた。あのあと隊長室へ戻ろうとしたが、どうしてもノルンが気になって足が進まなかった。
勝気なノルンが一瞬だけ見せた悲しい瞳、そして今も肩を抱いて縮こまって座っている。
- 一体、お前に何があったんだ?
とんでもない事情の者達を預かるフォルセティだが、ノルンだけは心のどこかで引っ掛かる。
「気になる?」
ノルンに気を取られて、エルデイルの気配に気づかなかった彼は憮然とした。
「戦場だったら今頃死んでたな」
「いつも気を張ってたら疲れるわよ」
そう言って、エルデイルは酒の瓶を掲げてみせた。フォルセティは口角を上げて、彼女と一緒に近くにあった木の丸太に腰を掛ける。
「ノルンが無事でよかったわ」
「あいつは簡単に死にゃしないさ」
「そうね。見た目は華奢だけど、そこらの男より根性があるもの」
やけに含みのある言い方だった。
「なあ、あいつについて何か知っているのか?」
フォルセティが尋ねると、エルデイルは軽く見張った目を細めて「いいえ」と答えた。
嘘をついている。フォルセティはそう感じだが、追及したところで彼女がしゃべらないだろう。時がきたら語ってくれる、エルデイルはそういう女だ。
しばらくして、月光に照らされた小柄な影が二人の前に差す。
「おらんと思ったらこんな所に隠れておったか」
武具屋のガルーラだった。
「おじいさん、一緒に飲まない?」
エルデイルの誘いに、ガルーラは若い二人を交互に見やった。
「いちゃつくのはいいがほどほどにな。ノルンには目の毒じゃ」
「はあ?」
「さすが、人生の先輩には見抜かれるのね」
呆れるフォルセティの腕に、エルデイルはわざと体ごと押しつけた。彼女の豊満な胸の感触がもろに伝わってくる。フォルセティは腕を振り払って立ち上がった。
「あら、どこ行くの?」
「そうとも、宴は始まったばかりじゃ」
「仕事が山ほど残ってるんだよ」
手元のグラスを一気に飲み干すとエルデイルに手渡す。
「お前もほどほどにしとけよ。まだ怪我人がいるんだからさ」
「お前さん、そんなに仕事熱心だったのかのう?」
「知らなかったのか?」
二人に背を向けたフォルセティは、挨拶代わりに片手をひらひら振って隊員達の元へ戻っていった。
ガルーラの含み笑いに、エルデイルは「なによ」と睨みつける。
「お前さんも好みが幅広いと思ってな」
「ノルンのこと? あの子は弟みたいに放っておけないの」
「そうかもしれんな」
武具屋の老人と女医者はグラスで喉を潤した。
翌日、ノルンは見張り台の上で朝を迎えた。
眩しい朝陽が昨夜の傷跡を浮き彫りにしていくと、ノルンは眼下に広がる光景に絶句する。煤で所々黒く汚れた防壁、踏みにじられた野草、壁には敵か味方か分からない血しぶき。
「歩哨、ご苦労」
交代で登って来たハールが、強風にぶるっと身震いする。返事がないノルンの視線を辿り、ハールも神妙な顔つきになった。
「まだこれはマシの方だぜ。長引きばもっと悲惨になる」
「死んだ人はいなかった?」
「ああ」
当事者抜きの祝勝会は遅くまで続いたらしく、ハールの目は赤く息はまだ酒臭い。
「そういえば、ミーミルが捜してたぞ。早く無事な姿を見せてやれ」
「うん」
ノルンは木の階段を降りて食堂へ向かった。着いた頃にはほとんどの隊員が食事を済ませていたので、まばらとなった食堂でトレイを持って並んでいると
「ノルン!!」
大声で呼ばれて振り向くと、目を三角にして仁王立ちするミーミルがいた。
「お、おはよう」
つかつかと一直線に歩み寄ってくる彼女に、ただらなぬ迫力を感じてたじろぐ。その場に居合わせた者達も息を飲んで事態を見守っていた。
あっという間に、ミーミルの顔が目と鼻の先に近づいて胸元を掴んだ。
「……勝手に死んじゃいやだからね」
ミーミルはそう言って俯いた。




