その2
翌朝、ノルンが馬小屋を掃除していると入口の方から話し声が聞こえてきた。そっと近づいて様子を覗いてみると馬主とその友人達である。
「おい、国境騎馬隊が募集しているぞ。金が欲しいなら志願したらどうだ」
「馬鹿言え、命あっての物種だ。……なんだ、ノルン。いたのか?」
柱のそばで突っ立っていたノルンに、男が気付いて声を掛けた。金銭に関わる話と分かって詳しく聞こうとつい身を乗り出していた。
「それって、ぼくも志願できますか?」
その場にいた男達が顔を見合わせて眉を顰めた。
「お前ん家も大変だろうが、あれだけはやめておけ」
「そうだとも。子どもに務まる仕事じゃない」
国境騎馬隊といえば、国王直下の騎士団で近衛隊に並んで精鋭ぞろいとヘイムダムから聞いている。つまり、採用されればこんな名誉なことはないはずだが、何故皆が反対するのかノルンは不思議でならない。
「ぼくは子どもじゃない」と不満げに口を尖らすノルンに、馬主がその理由を説明し始めた。
彼の話では、西にある海と山に囲まれた小さな国だという。治外法権の隣国に逃れようと、国境を越える盗賊たちが毎晩のように押し寄せるらしい。それが故に、度胸と腕がなければ国境はおろか自身の命さえ守れない。そして志願した大抵の男達は、あまりにも過酷な現状に逃げ出すか戦いで絶命するのだ。
と、ここまではあくまでも噂だと馬主は念を押す。真実は誰も知らないが、悪い噂は雨雲のようにさっと広がり人々を嘘で濡らしていく。お陰でますます隊員が減り、手薄になったところへ国境を破る輩が襲う。戦いが激化してまた隊員が減っていく、この悪循環なのだ。
国境を脅かされては国家としてゆゆしき事態である。だから、苦肉の策として死んでも惜しくない罪人を集めている始末だ。
「だけどよお、あの隊長になってから少しは平和になったって話だぜ」
「『国境の狼』か。まだ若造だと聞いているがな」
「『国境の狼』……」
ノルンは呟いて心にその名を刻んだ。ヘイムダムのように屈強な騎士なのか、それとも狼のように気高く物静かな男なのか。
どんな人物か気になるが、もっぱらノルンの興味は別の所にある。
「でも、給料がいいんですよね?」
彼女の言葉に、一同は呆れた視線を向けた。
「そりゃあな。だが、死んでしまえば元も子もない」
「さあ、この話はおしまいだ」
馬主たちは、一方的に話を終わらせて店の方へ行ってしまった。残されたノルンも作業に戻ったが、頭の中は国境騎馬隊のことでいっぱいだった。自分がいなければ、浮いた食費は母親の薬代に充てられる。たとえ入隊できなくても、軍隊がある町は隊員で潤っているので雇用も多いに違いない。
一年前まで王族として何不自由なく暮らしてきた母娘が、頭を下げて人に仕える苦労は並大抵ではなかった。娘は好奇心旺盛な性格で乗り切ってきたが、母親は抵抗があるのかなかなか慣れずにいる。そんな彼女を支えてきたが剣を捨てたヘイムダムだ。皆、何かを失って現在を生きて来た。もうこれ以上誰かが犠牲になるのは嫌だ、そう考えたら居ても立っても居られなくなった。
手っ取り早く稼げてしかも強くなれると、聡明だが短絡的でおまけに世間知らずのノルンは早速行動に移す。
馬小屋の掃除が終わると、ノルンは張り紙を探しに街へ出掛けた。
酒場の壁、雑貨屋のドア、電柱……、至る所に貼っているうちの一枚に手に取って見た。
『国境騎兵隊、大募集!! 腕に自信がある方・金策にお困りの方、大歓迎!! 衣食住タダ 高収入間違いなし!! 年齢、経験不問!! ※ただし、男性のみ』
これを見る限り、どこの給仕募集かと思うほどいい加減で軽い。本当に国王直下の部隊なのか首を傾げたくなる。
年齢はともかく、弓術の腕前は筋はいいとヘイムダムは褒めてくれた。なんといっても、祖国一の騎士が言うのだから少しは自惚れてもいいかも知れない。
だが、問題は母親をどう説得するかだ。ユミルはノルンに美しい娘へと育ってほしかった。だからこの地に流れ着いて、生活の足しにノルンが長い金髪を売った時はひどく悲しんだものである。国境騎馬隊に志願すると伝えたら、嘆き悲しむは目に見えていた。そうなったら、今度はヘイムダムが代わりに行くと言い出し兼ねない。
彼には母親を傍で見守ってもらいたい。父亡き今、病弱のユミルを支えてあげられるのはヘイムダムだけなのだから。
その夜、ノルンは二人が寝静まったのを見計らってベッドの下から壺を取り出した。ヘイムダムが小遣いにくれたお金を使わず、この中でずっと貯めていたのである。雑貨屋で買った地図を床に広げて国境騎馬隊の場所まで指を滑らした。平面上で見ても結構な距離で、途中には山や川を越えなければならないだろう。それでも、追っ手の陰に怯えて逃げ惑った日々に比べれば気が楽だ。
―食糧や薬も買わなきゃ。馬はどうしよう。
騎馬隊というくらいだから馬は不可欠だが、果たしてお金は足りるだろうか。取り敢えず、大きな布袋に服や下着を片っ端から詰めるとまたベッドの下へ隠した。
こうして数日経った頃には、出発の準備がすっかりできて残るは移動手段の馬のみとなる。
「おじさん、一番安い馬って幾らくらいですか?」
ノルンは馬のブラッシングをしながら馬主に尋ねた。
「そうだな、五千グランはするな」
「そんなに!?」
―とてもじゃないけど、買えない……。
この世界では馬は重宝されているから無理はないのだが、意外な高値にノルンは唇を噛む。
「老いぼれた馬なら安くで売ってやるぞ。遠出は無理だが、農作業にはまだ使える」
「ありがとうございます。でも、もういいんです」
小さく笑って作業を続けると、馬主は何か言いたげだったが納屋の方へ歩いていった。馬での移動は諦めて、通りがかりの馬車を捕まえて目的の土地へ行くしかない。ノルンは頭のノートに予定を書き直した。
いよいよ出発は明日の早朝と決めたノルンは、仕事が終わると真っ直ぐ家に帰りユミルと一緒に夕飯の支度を始める。これが最後の晩餐という実感は湧かず、むしろこれからの一人旅に心躍らせていた。ふと隣のユミルに目を向けると、王妃だった頃の華やかさが消えてやつれた印象が拭えない。こんな母の元を黙って離れることに胸は罪悪感で傷んだ。
「お母様」
スープの味見をする手を止めてユミルが振り向く。首をわずかに傾けてこちらを見る母に、ノルンの口から言葉が出てこなかった。夫を無残に殺されて、嘆く間も与えられず逃亡生活で土地から土地へさすらったユミル。もう苦労は掛けたくない。
―わたしがいなくても、ヘイムダムがいるから平気だよね。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
ユミルの白い手をノルンの荒れた手が包み込む。ユミルは微笑んでもう片方の手を娘のそれに重ねた。
「さあ、もうすぐヘイムダムが帰ってくるわ。夕食の準備を急ぎましょう」
「はい、お母様」
二人は寄り添って料理を作り始めた。
ヘイムダムが帰ってくると三人で食卓を囲む。そこに笑い声はなかったが穏やかな時間が流れて、明日ここを去ると決めたノルンは落ち着いて食事ができた。食べ終わり、ユミルが後片付けをしている間にヘイムダムは斧の手入れをしに家の外へ出た。ノルンも弓を持って追い掛ける。
「ねえ、ヘイムダム」
「なんでございましょう」
「お母様をこれからも守ってね」
唐突の頼みにヘイムダムがこちらを見やると、ノルンの目線は頭上に煌めく星空にあった。