その10
ノルンが入隊して二週間が過ぎた。サイズが合わなかった軍服もだいぶ体に馴染んできている。
馬の世話や調理場の手伝いなど未だに下働きだが、衣食住タダで給料ももらえるのだから文句はない。宿舎へ遅く帰るので、夜勤者だけ気を付ければ入浴も怪しまれずに済ませられる。のんび湯につかりたいところだが、そうもいかなかった。
騎馬隊の任務も、今のところ街のいざこざを仲裁するくらいで平和そのものだ。巷の噂とかけ離れて大きな騒ぎもなく、気構えていたノルンは拍子抜けである。
だからといって、いつ国境を破る者達が現れるとも限らないので鍛錬は欠かせない。各々の得物で行うのだが、ノルンのそれはガルーラに預けたままだ。調整の仕上がり具合を窺おうと武具屋へ行く。
「こんにちは」と声を掛けたが、作業中で聞こえないのか返事がない。更に大きな声で呼ぶと、中から出てきたのは老人ではなく長身の隊員だった。
「あ、ケルムト。君もいたのか」
ケルムトは相変わらず無口で細く鋭い目で見下ろしたが、ノルンも彼の不愛想をとりわけ気にもしなかった。
「ガラールさん、いる?」と尋ねると、ケルムトは小さく頷く。横を通り過ぎる彼から鉄の匂いがした。
話し声が聞こえたのか、前掛けをしたガルーラが奥から出てきた。
「ノルン、来とったか」
「こんにちは。弓の様子を見に来ました」
「出来とるぞ。試し打ちをしてみるか?」
「はい」
弓を受け取ったノルンは、ガラールに連れられて裏の方へ回った。短く刈られた草むらと遠くにある大木に下がっている的がある。しばらく使われておらず、弓を得物とするのは今はノルン以外にいないという。
ノルンは弽を手につけて矢筒から一本の矢を抜くと、目を閉じてすうっと深呼吸した。こうしているとヘイムダムの教えが耳元に蘇る。
やがて、おもむろに目を開けて弓を構えた。数十メートル先の的を見据えて、キリキリと弦を引き一気に矢を放つ。風を裂き一直線に駆け抜けたが、惜しくも的の中心からだいぶ反れた。
だが、ノルンは落胆しない。最初の一射は感触を確かめたのだ。新しく調整されてどのくらいズレが生じるのか、自分なりに修整して頭に書き換える。ガラールも分かっているのか、詰らず黙って見ていた。
今度は矢筒から数本まとめて抜くと地面に突き刺す。
ここからのノルンは凄かった。ゆっくり構えたのは最初だけで、間髪入れず放たれる矢は的へ吸い込まれていく。息つく暇も与えず正確な動作に、ガラールから感嘆の声が漏れた。
すべて射終えたところで、ノルンは残心を解くと「ふう」と大きく息をした。それを見届けて、ガラールが的へ歩み寄る。ほとんどが中央に命中する成果に、彼はつい笑みがこぼれた。これまでいろいろな騎士に出会って確信する、この子は弓の名手になると。
ガラールが抜いた矢をノルンに渡して尋ねた。
「ノルン、流鏑馬をしてみらんか? 馬を連れて来い」
ノルンの表情が一気に曇り首を横に振った。馬の世話はしても、相棒ともいえる自身の馬はいない。結局、馬も持たずまいだと告げると、老人は憮然とした。
「馬がおらんとな? それを早く言わんか」
ガラールが何か言おうとした時に、ちょうどハールの呼ぶ声と重なった。
「お前、こんな所で油を売っていたのか。調理場のオバサンたちが騒いでいたぜ」
ノルンはハッとして武具屋の壁時計を見ると、調理場の手伝いの時間が過ぎている。慌てて弓を背負い、矢筒を肩に掛けた。
「もう行かなきゃ。ガラールさん、ありがとう」
「おい、まだ話は終わっとらんぞ」
「また来ます!!」
一礼して慌ただしく走り去るノルンに、ガラールはぶつぶつと言いながら見送った。
「ほんと、あいつにはお優しいこと」
隣に並んだハールが、自分と明らかに態度が違うと不満を口にする。
「俺とノルン、この差はなんだろうな!?」
「まず、あやつはわしを『じいさん』と呼ばん」
「じいさんなんだから仕方ないだろうが」
禿げた頭に白髪が辛うじて生えている姿、誰がどう見ても『じいさん』だ。本当のことを言われて、年甲斐もなく拗ねているのかとハールは呆れた。
「『お兄さん』とでも呼べばいいのかよ。厚かましいにもほどがある」
「だから、わしはお前は好かんのじゃ」
ハールの頭を小突きたいところだが、あいにく背が届かず腹いせに脛を蹴る。
「いってー!! 怪我したらどうするんだよ!?」
「エルデイルに診てもらえばいいじゃろう」
すると、ハールのしかめっ面が消えて笑顔が広がる。
「その手があったか!! じいさん、ありがとよ」
ハールが嬉々して診療所の方角へ駆けていった。憎まれ口を叩かれたかと思ったら礼を言われて、ガラールは小さな目を丸くした。
ノルンは急いでエプロンに着替えて調理場へ入ると、出会い頭に人にぶつかった。
「キャッ!!」
「うわっ!!」
尻もちをつくほどの衝撃に、二人の顔が同時に歪む。
「大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ!! どこ見て歩いてるのよ!?」
甲高い怒号が辺りに響き、リド達がこちらへやって来た。
「ごめん。急いでいたものだから」
「気をつけなさいよ!!」
怒り治まらぬ人物は、ノルンと同年代の少女だった。ふわふわの長い髪、くりっとした大きな瞳とふっくらとした白い頬は紅潮している。横柄な口を利かなければ間違いなく可愛い。
「って、あなた誰? 見慣れない顔ね」
「新入りのノルンだよ。で、これがうちの娘のミーミル」
リドが紹介すると、ノルンは改めてミーミルを見た。たてよこがっちりとした母親とは正反対で、ミーミルは小柄で線が細い。着ている服は高価ではないが、エプロンドレスが彼女の雰囲気に合っていた。
ミーミルは腕組みして、冷めた目をノルンに向ける。
「あなたがノルン? お母さんから聞いてはいたけど、ほんと女の子みたいね」
「綺麗だろ? 男の子にしておくには勿体ないよ」
実際女であるノルンは、母子の会話を素直に喜んでいいのか迷うところだ。
「騎馬隊は顔じゃないのよ。隊長みたいに逞しくないと」
「隊長? フォルセティ隊長のこと?」
「そうよ。どこの隊長より素敵なんだから」
フォルセティを語るミーミルは、口調に刺々しさはなく恍惚の表情である。乙女心に縁がないノルンは、彼女の変わりようについていけなかった。
「ミーミルは隊長がお気に入りなのさ」
リドが小声でノルンに囁くと、ミーミルが「余計なことは言わないで」と口の形だけで母親に文句を言った。
- 隊長か。そういえばあれから会っていないな。
街の食堂での乱闘騒ぎ以来、面と向かって話をしたことがない。ハールやケルムト達は会う機会があるだろうが、下働きで日が暮れるノルンは見掛けるくらいだ。自分もいつかあの狼眼の隊長と前線に出る日がくるだろうか。それにはまず馬がいるので、初給料で買おうと楽しみにしている。
「おしゃべりはこのくらいにしときな。ミーミル、ノルンと一緒に野菜の皮を剥いておくれ」
「ええ!? 私がノルンと?」
ごねてみたが、母親の鋭い一瞥に「はーい」と間延びした返事をして包丁を手に取った。
「ほら、早くやるわよ」
頬を膨らますミーミルから微妙に距離を取って、ノルンも皮を剥き始めた。