その1
「ここが終わったら、次は馬小屋の掃除だよ」
「はい!!」
馬主に元気よく返事をする少女の名前はアールヴ・ノルン、十六歳。今は訳あって『少年』として生きている。美しい金髪は乱れて白い肌が泥で汚れても、大きなすみれ色の瞳はキラキラと輝きを失っていなかった。
ノルンは、少年のふりをしてもう一年以上経つ。男言葉もだいぶ慣れてきたとはいえ、膨らんでくる胸を布で押えるのはかなり窮屈となったきた。なら、女として働けばいい。髪を伸ばし口紅でもひけば、器量のいい彼女なら給仕で雇ってもらえるだろう。重労働の割に稼げない馬の世話よりよほど金になる。
だが、ノルンにはそうできない理由があった。城を追われた身で、『王女』の身分は隠さなければならない。もし、あの者達に知れたら自身はおろか母親の命も危ういのだ。
だから、臭い、キツい、安いと三拍子揃った仕事に不平を漏らさず、毎日鍬を肩に担ぎ走り回っている。
ここでは交通手段は馬が主流なので、手入れは欠かせない仕事だ。馬を放牧している間に、鍬で敷草をかき集めて馬舎の外へ運び出す。糞をほうきで掃いて、水で流して乾くのを待ってから真新しい草をまた敷き入れる。
ここまでがノルンの仕事となっていた。手際よく作業しなければ、放牧から戻ってきた大事な馬を外で待たせてしまう。
排泄物にまみれた草は思いの外重く、華奢な体に力仕事は堪えるが歯を食い縛って耐えた。そうでもしないと、役に立たたずとみなされて仕事を与えられないからだ。
「ノルン、今日はこれで終わりだ」
「お先に失礼します」
ぺこりと頭を下げてノルンが引き揚げると、男達が集まって話を始める。
「しかし、あんな細い身体で毎日頑張るよな」
「仕方ないさ。病弱な母親を抱えているんじゃなあ」
「給料、少し色を付けてやれ」
「バカ言え。こっちだってギリギリなんだ」
「綺麗な子だから、どこかの金持ちが目をつけてくれるのを待つしかねえな」
「人の心配より自分の心配だ。ほら、働け」
馬主が追い払うと、男達はぶつぶつと不満を口にして散らばっていった。
やっと一日の仕事を終えて、ノルンは重い足を引きずって帰路に就く。着いた先は古びた小さな
一軒家だった。お世辞にも立派と言えないが、彼女にとってはかけがえのない場所である。
「ただ今」
「お帰りなさい。まあ、顔に泥を付けたまま帰ってきたの?」
出迎えたのは母親のユミルだ。彼女はある国の王妃で、夫である王は謀殺されてこの世にいない。娘と同じ長い金髪を一つにまとめ、肌は青白く顔色が悪い。やつれているがその美しさは少しもくすまない、ノルンには自慢の母親である。
ユミルは、ハンカチで娘の顔を拭うと長いまつ毛を伏せた。
「女の子なのに、つらい仕事させてごめんなさい」
「そんなこと言わないで、お母様。これでも結構楽しいよ」
勢いよく椅子に座る様子を快く思わなかったのか、眉をしかめて「おしとやかになさい」とノルンを窘める。家では女の子らしく振る舞えと注意されるが、身も心も男の子に馴染んでしまっているから今更だ。
「ヘイムダムはまだ帰ってきていないの?」
「もうすぐ戻ってくると思うわ」
「迎えに行ってくる」
ノルンはそう言って家を飛び出した。母親は好きだが、懇々と続く説教はご免こうむりたい。
野道を走り抜けると草原が広がり、歩きながら荒い息を整えた。ふっと見上げる空は茜色に染まり始める。
「ノルン様」
太い声に振り向くと、体格のいい中年の男が立っていた。彼の名前はスルト・ヘイムダム、ノルンの父親に近衛隊長として仕えていた人物である。
「迎えに来て下さったんですか」
ノルンが頷くと、目を細めて小さく笑った。
「さあ、帰りましょう。ユミル様が待っていらっしゃいますよ」
横に並ぶヘイムダムにそっと父親の陰を重ねる。彼と父は友であり腹心だった。王である彼が太陽なら部下のヘイムダムは月、主に仕え命を捧げる騎士。幼い頃から近くで見てきたノルンはそんな彼を敬愛している。
もと来た道を帰っていると、遠くの方に大きな野ウサギが現れた。草を食べるのに必死でこちらの存在に気付いていないようだ。
「ちょっと待って。食料を調達しなくちゃ」
ノルンは背中にからった弓を抜き出すと、腰に提げた筒から矢を取り出して構えた。ギリギリと音を立てて弓を引き、獲物に向けて一気に放つ。
放たれた矢は風を切り裂き野ウサギに命中した。そして草の茂みから飛び出した影に、一旦は構えたノルンだがおもむろに弓を下ろす。二人の視線の先に映ったのは、先ほどの獲物に寄り添う小さな野ウサギだった。
「親子連れだったのですね」
「うん……」
「どうなさいますか? 親を失った子は生きられないかもしれませんよ」
だから、せめてもの慈悲で小さな命を奪えというのか。ノルンは悲しげに二羽のウサギを見つめた。
結局、躊躇する間に子ウサギはまた茂みへと消えてしまう。
―これでいいんだ。
ノルンは自分に言い聞かせてウサギを丁寧に布袋に入れた。我々が生きるために捧げた命を粗末に扱えない。
実はこういう場面は今回が初めてではなかった。正直ヘイムダムとノルンの稼ぎでは、三人が暮らしていくには苦しい。せめて食糧はこうして狩りで賄っている状況である。
その都度動物の命を狩っていくのは、王家で何不自由なく育ったノルンの心に重くのしかかった。
「明日から狩りは私がいたしましょう」
「平気だよ。ヘイムダムは仕事で疲れているんだからぼくに任せて」
「しかし、ノルン様」
「そんなにぼくの腕が信用できない?」
わざと拗ねた口調で詰ると、ヘイムダムは「いいえ」と小さく笑った。
弓術を教えたのは彼自身で、ノルンの上達ぶりは舌を巻くほどだった。特に連射は的確に標的を射抜かなければならないため、騎士でも難しいのだがノルンはそれを得意とする。そもそも彼女は活発で、女の子の遊びには関心がなく騎士達の訓練をこっそり覗いていたくらいである。
もし、ノルンが本当の男だったらさぞ立派な騎士となっていたに違いない。
「では、お願いいたします。しかし、ご無理はなさいますな」
「わかった」
二人は微笑み合って帰路へ着くのだった。
その日の深夜、ノルンは居間で話す男女の声で目を覚ました。狭い家だ、居間での会話がノルンの寝どこまで筒抜けなのである。物音を立てないようにそっと起きるとドアに耳を近づけた。
「あなたとノルンはよく働いてくれているわ」
「しかし、これでは来月までもつかどうか」
どうやら金銭の工面を相談しているらしい。
この村は土壌が悪く作物があまり育たないので、収穫されたわずかな穀物は値が吊り上がるのだ。穀物からできる食品も例外ではなく、それゆえ裕福の者しか手に入らず庶民は慎ましく生活している。
ユミルの薬も行商から買うのだが、彼等にとってはかなりの高額だ。ヘイムダムが早朝から夜遅くまで力仕事をこなすも、賃金が安いので日々の生活で精一杯である。
彼ほどの剣の腕前なら、どこの護衛隊でも勤まるのにそうはできない現状が歯痒い。ノルンも頑張って働いてはいるが、馬の世話では生活の足しにもならない。
「私が働ければいいけど」
ユミルは王家の出身で、得意な刺繍や声楽はここでは何の役にも立たなかった。それに、逃亡と慣れない環境での生活で体を壊して無理はさせられない。
「心配なさらずに。私が仕事を増やしましょう」
「無理しないで。あなたまで体を壊してしまうわ」
しばらく沈黙が続いて、灯りが消えた。
ヘイムダムはユミルを大切に想っている。それはノルンにも分かるくらい、主従という関係以上に深く大きく――――
彼は忠誠以上に親子に尽くした。そんな彼を傍で見てノルンは思う。
―わたしにできることってなんだろう……。
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