勇者様の帰還
水の流れにも似た、光と闇の渦。
二人の若者がそれに見入っていた。黒髪の少年と、桃色の髪の少女。
少年は再び、その奥に目を凝らした。そうしてやっと見える程度に、薄青く輝く壁のようなものが見えている。こちらの世界の人々は、それを<ディメンスの境界>と呼んでいる。
少年は一年前のことを懐かしく思い出した。あの境界の向こうにあった平凡な日常。そこから、いま隣にいる美少女の声によって、滅びつつあったこの世界に呼ばれて来た日を。自分がどこにでもいる中学2年生だった、最後の日のことを。
「エフサティア」
ためらいがちに、勇者は美少女に呼びかけた。
「君に身寄りはいないだろう? もし良ければ、一緒に……」
少女は黙ってかぶりを振った。
「行ってみたいですね、シンヤの故郷に」
エフサティアは持っていた小石を、すっと滝の向こうへ投げ入れた。
小石は境界に当たるや否や、光の粒となって音もなく周囲に散って行く。
「でも、駄目なんですよ。こちらの世界の物質は、決してディメンスの境界を超えることができません。境界に触れただけで消滅してしまうのです。あちらの世界の人である、あなたと違って」
そう言って少女は寂しそうに目を伏せた。
「すぐ戻ってくるよ」
「私、あなたが帰ってこなくても恨みません」
「何を言ってるんだ!」
少年は思わず大声をあげた。
「家族や友だちにちょっと会うだけさ。僕は必ず戻って来て、妖邪神を倒す! 君……の住む世界は、僕が必ず救ってみせる!!……そう信じてくれたから、勧めてくれたんじゃないのか。元の世界のみんなに別れを告げる事を」
ごめんなさい、と少女は言った。
「本当は……あなたが戻ってこない事を期待していたの」
済まなそうに目を伏せる。
「……だって、勝てるかどうか分からないでしょう。あなたが負ければ、あなたもこの世界もなくなってしまう。でも逃げれば、少なくともあなただけは助かるから」
「エフサティア……」
少年は少女の手を握った。
「不思議なものですね。勇者なんて信じてなかった。邪妖神に対抗するための、駄目でもともと、死んで当然の駒のつもりで、<チキュウ>でしたっけ? 異世界の少年を呼んだのに。今はその人が、この世界よりも大事なんです」
「この世界も救うさ。そしたら一緒に……」
痛いほどに握られた手を、エフサティアは握り返した。
「嬉しい……」
少女の頬が上気し、桃色の髪と溶けあった。
「それじゃ、言ってくるよ。すぐ戻るから」
少年はぱっと身を躍らせ、<ディメンスの境界>に飛び込んで行った。
エフサティアは数秒の間、じっと渦を眺めていた。くすくす笑い始めた。
エフサティアの純白の肌が、体の中央からまっぷたつに避け、中から別人が現れた。
別人? いや、それは人間ではなかった。
すらりとしていた両脚は接着して青黒い大蛇の下半身となり、全身がぬめぬめと輝く鱗で覆われていった。桃色だった髪は紫のそれに代わり、後頭部が横一文字にぱっくりと開いたかと思うと、唇の分厚い大口があらわれた。
「いいえ、お別れよ。勇者様」
もはやクスクスではなく、げらげらと狂ったように蛇は笑っていた。
後頭部の大口が何度も叫んでいる。
「やりました邪妖神さま!やりました!勇者を始末しました!」と。
前の口が問いかけた。
「ねえ勇者様。あなた、こちらで何回食事したかしら? 何回排泄したの? どれだけ呼吸したか覚えてる? 考えたことないわよねえ。自分の体の何割が代謝されて、こちらの世界の物質と入れ替わっているかなんて」
大笑いしながら渦に向かって妖女は叫ぶ。
足元では、裂けた元美少女エフサティアの死体が、はやくも悪臭を放ち始めていた。
「その体でもう一度ディメンスの境界を抜けたらどうなるか……異世界のチューガクセーとかいう生き物は、体を何割失っても生きていられるのかしらね?」
某日の朝。
とある地方都市の中学校の校門に、赤い塊が落ちていた。肉と臓物の塊だった。
「何これ?」
「肉屋のゴミ?」
登校した生徒たちは、蝿のたかったそれを好奇の目で覗き込んでは、鼻を摘まんで去って行った。
野良犬が一匹やって来て、一部を咥えて持ち去った。野良猫も二匹、同じことをした。
やがて教師の指示を受けた初老の用務員が、嫌な顔をしながらゴム手袋をした手で肉塊をビニール袋に詰め、消毒液を撒いた。
翌日、地方紙が「中学校前に生ごみ不法投棄」と題した小さな小さな記事を掲載し、余っていた社会面のスペースを埋めた。
その肉塊が、一年前に行方不明になった男子生徒だと分かった者は、誰もいなかった。
こちらは転載ではなく、「なろう」でのオリジナルのものです。




