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蛍雪の功

 その魔女が十八歳のときまで、ただの見習いの占い師にしか過ぎなかった。

彼女が魔女となったのは、恋人を伝染病で失ったためである。

 愛する人を生き返らせる、彼女はそのためだけに魔術を学び始めた。

 召喚した最初の悪魔は、そんなことは俺の手にあまると言った。だがその悪魔は、名もない下級悪魔であった。

 もっと強力な悪魔なら、あるいは……そう思った若い魔女は研究に研究を重ねた。寝る暇も惜しみ、生活費を稼ぐ時間も切り詰めて、赤貧の中で修行に励んだ。真夜中まで魔術の研究に没頭した。

 蝋燭も灯油も買わずに、ランプの中に蛍を入れて灯りにして学んだのである。その甲斐があり、少しずつ強力な悪魔を呼び出せるようになった。

 二十年以上が瞬く間に過ぎ去った。

 彼女の心にとっては一瞬でも、彼女の肌はもはや瑞々しさを失っていた。もう彼に女として愛されることはできないだろう。たとえ今、恋人が生き返ったとしても、すぐに彼は年齢の釣り合う新しい恋の相手を求め、去っていくに違いない。

それでもいいと魔女は思っていた。もう一度でもあの人の姿を見ることができたら。あの人の声を聞けるのなら。

 大悪魔アシュタロスにさえ、死んだものを生き返らせることはできないと聞いたとき、彼女は絶望に泣き叫んだ。

 その後、彼女は数百歳を超えるという、中東の偉大な精霊使いを訪ねた。

 精霊使いは、人の生死を操る術を求めることに反対したが、哀れな女の必死の懇願についに折れた。

 しかし、ランプに宿る大精霊もまた、人間の生死は神が司るものだと言ったのである。

 だが大精霊はこうも言った。その禁忌を破り、魔の力をもって死者を蘇らせる術を記した書物が、たった一冊だけある、と。

 その書物を見つけ出したとき、すでに彼女の齢は八十を越えていた。

「ふたつのルシファーが力を合わせて放つ光を浴びながら、以下の呪文を唱えよ……」

 ルシファーとは、大魔王サタンのことだ。

 サタン本人を召喚するのに成功した人間の魔法使いは、ひとりもいない。そもそもふたつのルシファーとは何か。魔界の帝王サタンは、ただ一柱しかいない。

 どれほど魔法書を読み漁っても、伝説的な魔術師や宗教家を訪ね歩いても、その謎は解けなかった。あるいは、書物のこの項そのものが「不可能」の婉曲的な修辞であったのかもしれなかった。

 だが、ついに彼女は大魔王サタンを、ルシファーをこの世に呼び出すことに成功した。

 それはどんな大魔術師も成し遂げたことのない、黒魔術の最高の到達点であった。


 しかしサタンは答えた。そのような術には何の心当たりもない、と。

呆然として崩れ落ちる老女の前で、サタンはふたたび冥界に消え去った。

 視力の衰えた眼から老いた魔女はひたすら涙を流し続けた。無駄だった。彼女の一生の努力の全てが無駄だった。

 やがて魔女の寿命は尽きた。

 己の寿命を伸ばす術など彼女は知らない。知っていても使おうとは思わない。恋人のいない世界に長くとどまる術など、彼女にはまったく興味のないものだった。

 机に突っ伏したままの彼女の最期を見届けるものは、明かりに使っていたランプの中の蛍たちのみ。

 最期の命の火が消えようとする寸前、老婆はあの呪文を、恋人を生き返らせるはずの呪文をつぶやいた。ほんのうわごとに。

 遠くなった耳に、誰かの声が聞こえてきた。

「あの……すいません。ここはどこですか?」

 あの恋人の声だった。

 百年のあいだ、片時も忘れたことのない声だった。

 奇跡ではない。夢だと思った。悪魔に仕え続けてきた自分に、神様が奇跡を起こしてくれるわけがない。

「お婆さん、僕はどうしてこんなところにいるんです?」

 その声を聞きながらも、どうしても彼の復活を信じられないまま、老いた魔女は息を引き取った。

 だが、老婆の表情は、とても幸せそうだった。


 魔女は最後まで知らなかった。

 蛍の発光器の中で反応し輝く二種の物質が、ルシフェリンとルシフェラーゼと呼ばれることを。


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