一、
東京の都心部某所。そこには、霊的なものを対象とする警察機関が存在していた。一応、表向きには警察の一組織として知られている、「零課」と呼ばれる部署で、一人の女が顔をしかめていた。
目の前の机には、二枚の写真付きの書類がある。一枚は少年の写真、もう一枚は少女の写真がクリップで留められている。
「……逃がした、と」
「申し訳ありません。おそらく、何かしらの能力者が手助けしたのかと」
目の前にいる男は、冷や汗をかいている。それだけ、この女からは威圧感があふれている。
女はため息をつくと、さがれ、と一言だけ命じた。男はそれに従い、そそくさと部屋を立ち去る。
一人のなった女は椅子から立ち上がり、窓の外を見る。とくにこれといって目立つものや、珍しいものは無い。見渡す限りのビル、ビル、ビル。
女はそれを、いや、その窓から見える人間を忌々しげな瞳で見ていた。
夜。
昼間、半ば駆け込むかのように土御門邸に入ってきた、というよりも連れてこられた白羽は、リビングにいた。その目は、緊張、というよりも警戒の光が宿っている。実際、月美もすぐに土御門邸に連れてくることができなかったらしい。そして、この場に白羽のみを連れてくるのも苦労した。
なにしろ、一緒にいたセシアのそばを離れようとしなかった。無理もない。本当ならば、彼女といっしょに事情を聞きたいところだったが、セシアは現在、高熱を出して寝込んでいる。逃走中、適切な処置ができなかったためだろうか、かなりひどくなっていた。
安静にした方がいいことと、安全を保証することを約束して、ようやく一人でリビングに来ることを了承してくれた。
「さて……君たちは、いったい誰から逃げているんだ?」
「……」
「なぜ、ここまで無理をした?」
「……」
「……あの子は、君の恋人か?」
「なっ!」
間をおかず続けられた質問に対して、黙秘を貫いていたが、最後の翼の質問に白羽が赤面する。護はその様子を見て、少し微笑んだ。
この子も、自分と同じようなものだとわかったからだ。大切なものを守るために、必死になる。それこそ、命をかけて。
「君も、俺と同じだな」
「同じ?」
白羽は護をいぶかしげな目で見た。
その視線をひょうひょうとかわし、続けた。
「大切な人を守るため、自分を犠牲にする」
「……あなたも?」
「ああ」
護は天井を見た。視線の先には、護の大切な人がいる。数ヶ月前、護自身が命を賭して守ろうとした存在が。
その言葉を信用したのだろうか、白羽はぽつりぽつりと翼に問われたことを話し始めた。
要約すると、白羽とセシアは数年前に誘拐され、わけのわからない実験の被験体にさせられていた。その結果、白羽は手を使わなくてもものを動かすことができるようになり、セシアは人の心を読めるようになった。その力に目覚めると、彼らはさらに過酷な実験を行うようになり、それに耐えきれなくなって、二人は逃げだしたのだ。
一通りの話を聞いて、翼は、さてどうしたものか、と思案していた。
翼自身、白羽たちを追っている組織に心当たりがないわけではない。しかし、何の証拠もないのに「彼ら」を責めるわけにもいかないし、何より、下手に動いて土御門家が被害を蒙るような事態を引き起こすわけにはいかない。
かといって、このままこの子たちを放っておくわけにもいかないのも事実だ。
「……事情はわかった。しかし、話を聞く限り、事は少しばかり面倒なようだ……少なくとも、セシアさんの体調が良くなるまでは、安全を保障しよう」
それ以降は、申し訳ないが保障しかねる。
そう言って、翼は護に布団と客間の用意をするよう、指示を出した。
去り際に、白羽は護の服の袖をつかんだ。護は一瞬、驚きはしたが、白羽の方を振り返り、どうしたのか問いかけてみる。
「……俺に何かあったら、あの子を……セシアをお願いします。護さん」
護はその言葉を聞き、少しばかり不安を覚えた。
動けなくなるほどの怪我をして、何日も逃走してきた彼が誰かを頼るのは、自分自身の死を覚悟しているからなのではないか。そう思えてならない。
だからこそ、護はあえて冷たく返した。
「断る……自分の手で守ろうと決めたなら、最後までそれを貫け。お前ならできるはずだ」
だから、死ぬな。
護はそう言うと、白羽がつかんでいた袖を払い、二階へと上がって行った。
その夜、護が目を開けると季節外れの桜が咲いていることに気づいた。どうやら、夢渡りをしてしまったらしい。
「……最近、やけに多いな……」
そのうち、目が覚めなくなるなんてことがなければいいんだが。
護は最近になって、意識もしないのに夢渡りする回数が多くなっていることを気にかけ、心のうちでそう呟く。
今のところ、起きている間、急に眠くなることは無いので、おそらく心配はいらないだろうが。
「さて、と……」
護は適当な桜の木の根元に腰かける。どうやら、護が一足先に来てしまったらしい。
数ヶ月前の一件から、護の体には月美の力が流れるようになった。その影響なのかはわからないが、護が夢渡りをすると、最近は必ず月美の夢とつながるようになった。
月美がいなくてもわかる。桜は、月美の夢の象徴だから。
ふと、誰かが近付いてくる足音が聞こえてきた。
護が足音のした方を振り向くと、そこには白い単衣を着た月美がいた。月美は護の隣に腰かけ、身を寄せた。
「待たせちゃった?」
「いいや、来たばっかりみたいなものだよ」
月美の言葉に、護は穏やかに答える。その答え方に、どこか安心したのだろう、月美がくすくすと笑う声が聞こえてきた。
「そう言えば、さっきの子は?」
護が月美の部屋に寝かせている少女、セシアのことを問いかける。あれほどの高熱だったのだから、人間として気にかけるのは当然だ。
しかし、月美はその問いかけに意外そうな表情をした。
月美が意外に思うのも無理はない。何しろ、護はどれほど重症な怪我や病気になっても、見ず知らずの相手を気にかけることはしない。むしろ、そうなったのはそれがその人にとっての必然だったから、という言葉で片付けた。
それだけ、土御門家と風森家以外の人間には興味を示していなかったのだ。
しかし、最近は月美を仲介して、多くの人と交流を持つようになったためか、相手を気にかけることも多くなってきた。
「……少し、危なかったかな。薬のおかげで多少は落ち着いたみたいだけど」
「そうか……うちの庭で採れる薬草は、即効性があるものばかりじゃないから、仕方ないけど」
「うん……歯がゆいね」
土御門家の庭の一角には薬草に用いられる草花を栽培している場所がある。基本的に市販の薬を使うことはしないで、自然のものを用いて怪我や病気の治療をするのが、土御門家の習慣だ。そのため、即効性は期待できないが、副作用が少ない、比較的安全な治療を行うことができる。
しかし、危険が少ない分、即効性も薄く、気の長い治療が必要になってしまう。それゆえ、二人とも歯がゆさを感じているのだ。
ちなみに、昼間、遊びに来ていた子供たちに護が飲ませていたハーブティーも、この薬草園で採れたものだ。近所にも評判がよく、時々、バジルやペパーミントをおすそ分けすることもある。
「あとは、あの子の生命力次第、か」
「うん……ところで、ずいぶん気にかけるけど、浮気じゃないよね?」
月美は、護があまりにセシアを気にかけるので、一番最悪な結果を予想し、口にした。
自分の想いを伝えて、答えを聞いてから、はや半年近く。幸せ絶頂であると同時に、他の女子に目移りしたり、他の女子と話している光景を見たりすると不安になる時期でもある。
それゆえの言葉だったのだろうが、彼女の顔から漏れている微笑みが、返答いかんでは容赦ない行動に出ることを物語っていた。
「そんなことしないって。わかってるだろ?」
「わかってるから不安になるの」
月美の拗ねたような言葉に、護はそっとため息をつき、膝に置かれていた彼女の手を握る。月美も、握られた手をそっと握り返した。月美は少し安心したかのように、ため息をついた。
その様子を確認して、護はセシアを気にかけるわけを話す。逃げてきたもう一人の少年、白羽が守ろうと決心した存在であることと、彼がその気になれば命を落とすこともいとわないでいることを。
それが心配だから、護はセシアも気にかけている。
お節介と言えばお節介かもしれないが、月美が知っている護は本当は他人を心配することのできる、優しい人間だ。
「そうなんだ……だから、なんだね」
初めて会った時、白羽が必死になっていたのは。
月美がコンテナ置き場で二人を見かけた時、白羽はセシアを守るかのように抱きかかえ、敵意を丸出しにしていた。
それはひとえに、セシアを守るためだったのだろう。
「……護、あの二人、絶対に助けよう」
「ああ。そうだな……」
何かを決意したように、月美は護の手を強く握りしめた。護もそれに応えるかのように、月美の手を握り返した。