第3話 反撃の代償
廊下を駆け抜ける。
月明かりの射さない闇の中で、僕と大樹の足音だけが異様に響き渡っていた。
いや。違う。
背後からも確かに、逃れようのない死の音が追ってきている。
壁を耳障りにこする金属音。地を割るような重苦しい足音。
巨躯が愉悦に肩を揺らし、大鎌を引きずりながら迫る音だ。
「はっ、はっ……大樹……どっちに逃げる!?」
「いいかユーリ、二手に分かれるぞ!
俺は陸上部で鍛えてるから俺が囮になって引きつける!お前はその隙に逃げろ!!」
大樹は叫び、僕を突き飛ばすようにして反対の階段へと駆け出そうとした。
だがその瞬間、殺人鬼の呪詛のような数え声が重なった。
「……はぁぁーち、きゅうぅぅぅ……。」
長く引き延ばされた粘りつく声が、廊下中に反響する。すぐ後ろにいるはずなのに、まるで耳元で直接囁かれているように感じる。
「じゅうぅぅぅ……。」
刹那。
背後で空気が裂ける轟音がした。
大鎌の刃が壁ごと床を叩き割り、砕け散ったコンクリートの礫が背中に突き刺さる。
「っくそっ!
行け、ユーリ、走れッ!!!」
大樹が必死に囮となって逆方向に走る。
だが…その時、僕は心臓が凍りつくような事実に気づいた。
赤い瞳は、足の速い大樹には目もくれず、明確な殺意を持って、足の遅い“僕”だけを執拗に追っている。
「なんで……!?
なんで大樹を追わないんだ……!」
喉が焼けるほど叫びたいのに、肺が酸素を拒絶して声が出ない。
殺人鬼は捕まえやすい方から確実に狩りに来ている。効率的に、一匹ずつ、絶望を刈り取るために…….大樹が導き出した囮作戦という甘い期待を、殺人鬼は無言の足取りで踏みにじった。
図書室へ行けば勝てる?本棚を盾にする?
そんな数秒前の論理的な思考は、背後から迫る死の熱圧に焼かれて霧散した。
頭の中は真っ白になり、ただ震える足で視界に入った男子トイレへと、転がり込むように飛び込んだ。
一番奥の個室に駆け込み、鍵をかける。指が激しく震えて、二度、三度と空を切った。
鼓動が耳の奥で爆音を立て、自分の荒い呼吸音が場所を教えているようで恐ろしい。
「……ククッ……チビ、隠れんの下手すぎだろォ。」
低い声が、扉のすぐ向こうから聞こえた。
僕は、いつもしている脱出ゲームのギミックを解くように、この状況をクリアできると思っていた。
でも、目の前にいるのは理屈もルールも通用しない、ただの圧倒的な暴力だ。僕は、自分がただの子供でしかないことを、今さら痛感していた。
ゆっくりと、確実に、獲物の絶望を味わい尽くすような靴音が迫る。
来る。絶対に。
僕はパニックに陥りながら、鞄の中に手を突っ込み、小瓶を握りしめた。
指先が震えて止まらない。涙で視界が歪む。
「みぃぃぃつけたぞぉッッ!!!」
バキキィィィィン!!!!!と、凄まじい衝撃と共に、個室の扉が粉砕された。
木片が顔をかすめ、土足の巨体が目の前に踏み込んでくる。
その瞬間、僕は思考を放棄し、生存本能だけで小瓶の蓋をむしり取り、中身を奴の顔面へと叩きつけた。
「死ねぇぇぇっ!!!」
赤オレンジ色の粉末が、赤い瞳と開かれた口内へ容赦なく吸い込まれる。
「ッ……!?ぐ、が……っ、あぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
一瞬の空白の後、狂乱の咆哮がトイレ中に轟いた。
殺人鬼は顔を押さえ、のたうち回りながら大鎌を無差別に振り回す。
ズガァァァン!と凄まじい火花を散らし、陶器の洗面台が爆ぜる。壁が抉れ、鏡が粉々に砕け散り、刃が空気を切り裂くたびに死の音が鳴り響く。
「かっれぇぇぇぇ!!目がァァァァァッ!!ぶっ殺すッ……!
絶対に、八つ裂きにしてやるゥゥゥ!!!」
逆上した獣の叫び。
僕はその地獄のような光景から逃れるように、掃除用具入れの影へ身を滑り込ませ、口を塞いだ。
巨体が暴れるたびに床が振動し、粉塵が舞う。
この狭い空間で扉を破られたら、もう逃げ場はない。
だが、そのとき。
「キャアアアアアアアアア!!!」
「やめてッ!! 来ないで……ッ!!」
廊下の静寂を、肉を裂くような女子生徒の絶叫が叩き割った。
(……え……あれ、もしかして……山寺さん……?)
掃除用具入れの隙間から見えたのは、唐辛子を浴びて目を爛々と血走らせ狂乱する巨躯だった。
「ガァァァァァッ!!クソガキがぁぁ……!
よくも、よくも俺のツラをォォッ!!」
殺人鬼は、ちっぽけな獲物に手痛い反撃を食らった屈辱に、獣のような咆哮を上げる。
そのプライドを切り裂かれた怒りは、もはや理性を完全に焼き尽くしていた。
彼は、逃げ惑う山寺さんの長い髪を鷲掴みにすると、そのままコンクリートの壁へと、頭蓋が砕けるまで何度も叩きつけた。
ベチャッ、グシャッ。柔らかい果実が潰れるような不快な音が響き、彼女の顔面は一瞬で原型を失う。
だが、殺人鬼の怒りはそれだけでは収まらない。
「あいつの代わりに……テメェらで、この火照りを冷ましてやるよォォッ!!!」
それは、吐き気を起こしそうなほど惨烈な八つ当たりだった。
殺人鬼は大鎌を逆手に持ち、まだ痙攣している山寺さんの下腹部に、その巨大な刃を深々と突き立てた。そのまま上へと力任せに引き裂く。
脂肪と筋肉が裂ける湿った音と共に、彼女の腹部が無慈悲に開かれる。
内圧に耐えかねた赤く黒っぽい腸が、床の上にどろりと溢れ出す。
殺人鬼は溢れた臓物を軍靴で踏みにじり、中身が飛び出す感触を愉しむように足元で捏ねくり回す。
山寺さんは、自分の体から滑り出た温かい中身を、焦点の合わない目で見つめたまま、血の泡を吹いて絶命した。
「アハハハハッ!もっとだ!もっと肉を、絶望を寄越せェッ!!」
血飛沫を全身に浴びて踊る狂気の影。
それに混じって、別の震える声がした。
「や、やめろッ……俺に構うなッ……!!」
隣で腰を抜かしていたのは、川村さんだった。
殺人鬼は、ユーリへの憎悪をそのまま川村さんへ叩きつけるように、大鎌の石突を彼の口内に叩き込んだ。
「た、助けてッ……!まだ死にたく……っ、ぎ、あぇぁぁぁッ!!!」
歯が砕ける音と共に顎が外れ、川村さんの悲鳴が濁った呻きに変わる。
殺人鬼は大鎌を振り上げ、逃げようと足掻く川村さんの足を刈るのではなく、重い刃の背でハエのように叩き潰した。
バキキッと骨が粉砕され、剥き出しになった骨の鋭い断面が肉を突き破って外へ飛び出す。
のたうち回る川村さんの胸元を軍靴で踏みつけると、殺人鬼は鎌の刃を彼の喉仏に添えて、ゆっくりと、執拗に動かし始めた。
生きたまま気管を断たれ、空気が血混じりに漏れ出すヒューヒューという絶望的な音。
最後の一振り。
殺人鬼は体重のすべてを大鎌に乗せ、力任せに横へと引き抜いた。
血管と筋が引きちぎれる生々しい破壊音が響く。
噴水のように吹き上がった鮮血が、掃除用具入れの扉にまで、生温かく、ドロリとした重い音を立てて降りかかった。
……そして、床に不気味に転がってきたのは、つい先ほどまで一緒に授業を受けていた川村さんの頭部だった。
恐怖に限界まで見開かれた眼球は、引きちぎられた神経をぶら下げたまま、まるで僕を呪うように隙間の向こう側で止まった。
僕は、見てしまった。
見てしまったのに、動けなかった。
川村さんのその瞳が「……なんで、助けてくれなかったの?」と責めているように見えて、僕は丸メガネを外して目を閉じたいのに、指一本動かすことができなかった。
(……僕のせいだ……。僕があいつを怒らせたから……僕の代わりに、二人が解体されたんだ……!)
もし、僕が抵抗しなければ。
もし、僕が大人しく殺されていれば。
あいつはあんな風に、八つ当たりで二人をただの肉の塊に変えることはなかったのかもしれない。
喉の奥から酸っぱい胃液が込み上げてきた。
目の前で踏み散らされた腸は廊下に散乱し、湯気を立てる肉塊となっていた。
助けなきゃと思った。
でも、足は一歩も動かなかった。音を立てれば、今度は自分が、あの激怒した化け物に中身をぶちまけられると、魂が理解していたから。
(ごめん……ごめん、ごめん……!)
涙がメガネを曇らせ、何も見えなくなる。
それでも僕は声を殺し、胎児のように体を丸めて、ただ時間が過ぎるのを祈るしかない。
殺人鬼は、もはや肉の残骸となったものを足蹴にしながら、なおも愉悦に笑い続けている。
「もっとだァ!もっと絶望の顔を見せろォッ!」
その笑い声は、僕の脳の内側で、死んだ二人の断末魔と混ざり合って響き続ける。
足音が徐々に遠ざかり、廊下は再び、腐敗の予感を孕んだ静寂に包まれた。
けれど僕の視界には、まだ床に散乱した山寺さんの赤い残骸と、目の前に転がる川村さんの生首が、呪いのようにこびりついて離れなかった。
(……ごめん……僕が、殺したようなもんだ……。)
掃除用具入れの中で、僕は逆流する嘔吐物を必死に飲み込みながら、唇を噛み切った。
鉄の味が口内に広がる。それでも叫ぶことはできなかった。
だって、叫んだら。次は、僕が標的になる番だから…。
足元を流れる川村さんだった血液の海を見つめながら、どこか冷めた頭で考えていた。
(……これで、殺人鬼の愉悦は満たされたのかな。足音が遠い…もしそうなら、今外に出れば、僕は助かるんだろうか?)
そんな、自分だけが助かろうとする正解を導き出した自分に、本当の吐き気がする。
僕の心は、あの殺人鬼の大鎌よりも先に、自分自身の手で切り裂かれてしまったんだ。




