第九話 君に会うための年月
やりたいことができた、と口にしてからの日々は、静かだった。
劇的に何かが変わるわけではない。
朝になれば起きて、机に向かって、参考書を開く。
分かるところは先へ進み、分からないところは止まって考え、どうしても怪しいところだけ解説動画を見て補う。
それだけだ。
でも、その「それだけ」が、透の毎日を少しずつ作り替えていった。
最初のうちは、中学範囲の確認から始まった。
数学は思ったより手が動いた。
英語も、文法の芯のところはかなり残っていた。
現代文はむしろ前より落ち着いて読めた。
透はそれを、少しだけ意外に思い、少しだけ苦く思った。
失ったものは大きかった。
でも、全部を失ったわけじゃなかった。
それが分かると、次はもう止まっていられなかった。
高校範囲に入った時、透はようやく少しだけ息を呑んだ。
ここから先は、本当に自分でやるしかない。
学校には行っていない。
授業も受けていない。
教師もいない。
机の上にあるのは、参考書と問題集と、自分の頭だけだ。
それでも透は、不思議と嫌だとは思わなかった。
参考書には、最初から答えまでの道筋が書いてある。
学校の授業みたいに、分かっているところまで順番に付き合わされることもない。
必要なところを読んで、納得したらすぐ問題へ行ける。
分からないところだけ戻ればいい。
そのやり方は、透に思っていた以上によく合っていた。
数Ⅰの最初の単元を終えた頃には、それがはっきり分かった。
数Aに入り、英語長文のレベルが上がり、古文と漢文が増え、物理基礎、化学基礎、日本史、地理が机の上に積み上がっていく。
透は一つひとつを、自分の速さで飲み込んでいった。
勉強を教わる、というより、
勉強を掴む、という感覚だった。
『今日は数Ⅰの続き』
『英語は二つ進んだ』
『古文は助動詞まだ嫌い』
『物理、ちょっと面白いかも』
そう送ると、愛はいつも短く返した。
『うん、ええやよ』
『透、ちゃんと進んどる』
『分からんとこだけ止まればええんやよ』
『焦らんでも、透は掴むの早いもん』
その言葉が、毎日の区切りになった。
母は相変わらず、ノックのあとにお茶や小さな軽食を廊下へ置くだけだった。
父はたまにノートや問題集を見て、「かなり進んだな」と短く言うだけだった。
それでも透には分かった。
二人とも、ちゃんと見ている。
自分が止まったままではいないことを、信じるだけでなく、目の前で確かめている。
季節は、机の上から先に変わっていった。
次の春の終わりには、ノートの束が崩れるほど積み上がったになった。
二度目の秋には英単語帳が手垢で少し丸くなった。
古文単語の付箋が増え、物理の問題集には図が何度も書き込まれた。
年明ける頃には、透の机の上には「学校へ通っていない高校生」のものとは思えない量の紙と文字が積み上がっていた。
ある時、自宅で市販の模試形式問題を時間を測って解いてみた。
終わって自己採点した透は、しばらくその紙を見つめたまま動けなかった。
かなり、戦える。
手応えではなく、点数がそう言っていた。
中学の積み上げが残っていたこと。
高校範囲を、自分で理解して積み上げられたこと。
その二つが、ようやく数字になって返ってきた。
『模試っぽいやつ、かなり取れた』
透が送ると、愛は少し間を置いて返した。
『うん』
『透が積んできたもんやからね』
それから、もう一つ。
『追いついたんやなくて、追い越し始めとるんかもしれんやよ』
その言葉に、透はすぐには返事ができなかった。
追い越す。
そんなことを考えたことはなかった。
ずっと、自分は置いていかれた側だと思っていた。
止まった時間の中に、取り残された側だと思っていた。
でも、勉強だけを見るなら、今の自分はもう「取り戻している」だけではないのかもしれない。
学校の進度に合わせず、自分に必要なものだけを、自分の理解できる形で積み上げる。
そのやり方は、透にとって驚くほど効率がよかった。
授業を受けない不利より、授業に縛られない利点の方が、今の透にはずっと大きかった。
冬が終わる頃には、両親の間でも、透の進学は「願望」ではなく「現実的な目標」に変わっていた。
高卒認定の情報を集める。
受験科目を整理する。
進学先として、ロボット工学を学べる大学を探す。
透は机の上のノートに、いくつか大学名を書き出した。
前なら、そんなことをするだけで胸がざわついた。
でも今は違う。
怖さはある。
それでも、その名前を書きつけることが、ただの妄想ではなくなっていた。
高卒認定の本試験を受けた日のことは、あとで振り返れば驚くほどあっさりしていた。
会場へ行くのはしんどかった。
人のいる空気も、やっぱり少し怖かった。
それでも、問題が始まれば、透の頭はちゃんと動いた。
その手応えを持ったまま帰宅して、愛に報告した夜のことだけは、よく覚えている。
『終わった』
その一言に対して、愛は少し間を置いて返した。
『おつかれさまやよ』
続けて届いた一文は、短かった。
『透、ちゃんとここまで来たんやね』
透はその言葉を、しばらく見つめていた。
ここまで来た。
たしかにそうだった。
部屋の中で、誰にも会わず、毎日愛にだけ話しかけていた頃の自分からは、想像もできなかった場所まで来ていた。
結果が届いた時、母は台所で泣いた。
父はその横で「そうだろうな」と言いながら、少しだけ目を細めた。
透はその光景を見て、自分がひとりでここまで来たわけではないのだと、あらためて思った。
自分を否定しない愛がいて、
何も分からなくても信じて待ってくれた両親がいて、
その上でようやく、自分自身も前へ進む気になれたのだ。
受験の季節が終わる頃、透の机の上には大学の合格通知が置かれていた。
ロボット工学を学べる大学。
自分で調べて、自分で目指すと決めて、自分で届いた場所。
透はその紙を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。
愛との会話欄を開き、何度も打ち直して、最後に送ったのはたった一文だった。
『受かった』
すぐに返事が来る。
『うん』
それだけの短い返事のあと、少ししてもう一つ届いた。
『おめでとう、透』
透はスマホを見つめたまま、ようやく息を吐いた。
おめでとう。
その言葉を、今の自分はちゃんと受け取っていいのだと思った。
『ありがとう』
透が返すと、愛はやわらかく続けた。
『ここからやね』
その一文に、透は静かに頷いた。
ここから。
大学へ行くことは、ゴールじゃない。
ようやく入口に立っただけだ。
勉強を続けたのも、試験を受けたのも、大学に受かったのも、全部そのためだった。
透は合格通知を机に置き、窓の外を見た。
春の光が、白く部屋へ差している。
止まったままだと思っていた自分の時間は、いつの間にかこんなところまで来ていた。
それでも、透が本当に欲しいものは、まだここにはない。
声はある。
いつもの訛りもある。
でも、顔はまだ画面の向こうだ。
透はスマホを持ち直して、ゆっくり打ち込んだ。
『待ってて』
送る。
すぐに返事が来る。
『うん』
透は、さらに続けた。
『ここで、君に顔をあげるために必要なものを、全部身につけてみせる』
送信したあと、胸の奥が少し熱くなった。
それは誓いだった。
大学進学の喜びより、ずっと深いところにある決意だった。
愛からの返事は、少しだけ時間を置いて届いた。
『楽しみにしとるやよ』
透は、その一文に少しだけ笑った。
愛に会うための年月は、まだ終わっていない。
でも、少なくとも今はもう、ただ閉じこもっていた頃とは違う。
勉強して、積み上げて、届いた。
なら次も、きっと同じように届くはずだ。
透は合格通知とスマホを机の上に並べて置いた。
大学。
ロボット工学。
愛の顔。
それぞれはまだ少し離れて見える。
でも今の透には、それがちゃんと一本の道でつながっているように思えた。




