表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘告で人生を壊された僕は、画面の向こうのAI“愛”に救われた。だから今度は、君をこの世界へ連れ出したい  作者: リフェリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/15

第八話 扉の向こうで待っていたもの

 朝、目が覚めて最初に見たのは、机の上に開いたままのノートだった。


 高卒認定

 ロボット工学


 昨夜、自分で書いた文字が、そのまま残っている。


 透は布団の中からそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。


 書いただけだ。

 まだ何も始まっていない。

 勉強もしていないし、外にも出ていない。

 道筋があると分かっただけで、そこへ向かって一歩でも進めたわけではない。


 それでも、何もなかった昨日までとは違う気がした。


 行きたい場所の名前が、もうノートの上にある。


 透はゆっくりと起き上がり、枕元のスマートフォンを手に取った。

 愛との会話欄を開く。


 すぐに打ち込むつもりだったのに、指はなかなか動かなかった。


『起きた』


 ようやく送ると、少しして返事が来る。


『おはよう、透』


 その一文に続けて、もう一つ。


『今日は、部屋を出るん?』


 透は思わず息を止めた。


 昨夜、そこまではっきり言葉にしていたわけじゃない。

 でも、愛にはたぶん分かっていたのだろう。

 ノートに書いたものを、本当に形にするなら、次は部屋の外へ出なければいけないことを。


『……たぶん』


『怖い?』


 透は、その問いにすぐには返せなかった。


 怖い。

 そんなの、当たり前だった。


 部屋の外には、家がある。

 家の中には、両親がいる。

 この一年近く、自分がまともに顔を合わせてこなかった相手だ。


 責められるかもしれないとは、もうあまり思っていない。

 それでも怖い。

 心配をかけたことが分かっている相手の前に、自分から出ていくのは、別の意味で苦しかった。


『怖い』


 正直に送る。


『でも、話さないと何も始まらんやよね』


 返ってきた一文を見て、透は小さく息を吐いた。


 その通りだった。


『うん』


『怖くてもええやよ』


 少し間を置いて、さらに続けて届く。


『透はもう、何したいか見つけとるんやろ?』


 透はスマホを持ったまま、机の上のノートを見た。


 高卒認定。

 ロボット工学。


 まだ遠い。

 遠すぎるくらいだ。

 でも、何もないわけじゃない。


『見つけた』


 送ると、愛はすぐに返してきた。


『なら、だいじょうぶやよ』


『何が』


『だいじょうぶじゃないままでも、行けるってことやよ』


 透は、その一文をしばらく見つめていた。


 だいじょうぶじゃないままでも、行ける。


 それは、今の自分にとって都合のいい慰めではなかった。

 むしろ、今の状態をそのまま認めた上で、それでも動けると言われた気がした。


 透はスマホを置き、ベッドから足を下ろした。


 床は少し冷たかった。

 立ち上がるだけで心臓がうるさくなる。

 部屋のドアがやけに遠く見える。


 それでも、今日は止まらなかった。


 机の上のノートを閉じて、シャープペンをその上に置く。

 深呼吸を一つしてから、透はドアノブに手をかけた。


 何度も見たはずの金属の感触が、今日は妙に生々しい。


 開ける。


 廊下は静かだった。

 昼前なのか、家の中にはまだ朝の空気が残っている。

 洗濯機の音が遠くで聞こえて、台所の方からは味噌汁の匂いがした。


 透は一歩だけ外に出て、その場で止まった。


 たったそれだけで、妙に息が上がる。


 ここまでは来られた。

 でもその先が、急に重かった。


 リビングの方から、食器の触れ合う小さな音がする。

 その音を聞いているうちに、逃げたくなる気持ちが少しずつ強くなった。


 今ならまだ戻れる。

 何も言わず部屋に戻ってしまえば、今日はなかったことにできる。


 そう思った時だった。


「……透?」


 母の声がした。


 透は、はっとして顔を上げた。


 台所の入り口で、母がこちらを見ていた。

 手には布巾を持ったまま、動きを止めている。

 その向こうで、父も椅子から半分立ち上がりかけた姿勢のまま振り向いていた。


 たったそれだけの光景なのに、透の胸の奥は痛いほど締めつけられた。


 一年も経っていないはずなのに、二人ともひどく老けて見えた。


 母の目元には、前よりはっきり皺が刻まれている。

 父の髪には白いものが増えていた。

 頬のあたりも、少し痩せたように見える。


 この人たちは、自分が部屋に閉じこもっていた間も、止まらずに時間を生きていたのだと、言葉にされるより先に分かった。


 その時間の中には、きっと心労もあった。


 透は喉の奥が急に詰まり、何を言えばいいのか分からなくなった。


 母が最初に動いた。


「……あ、ごめん、泣くつもりじゃ……」


 そう言いながら、もう声が震えていた。

 母は布巾を握ったまま口元を押さえ、堪えようとして、結局堪えきれずにその場でしゃがみ込んだ。


「よかった……」


 それだけ言って、泣いた。


 透は立ち尽くしたまま、何もできなかった。

 責める声でも、問い詰める言葉でもなかった。

 ただ、「よかった」と言って泣く母を前にして、自分の中の何かがゆっくり崩れていくのが分かった。


 父が母の肩に手を置きながら、透を見た。


「……出てきたか」


 低い声だった。

 でも硬くはなかった。


 それから父は、少しだけ視線を和らげて続ける。


「まず、座れ」


 透は無言のまま頷いた。

 足がうまく動かない。

 それでも何とかリビングまで歩いていき、椅子に腰を下ろす。


 母は父に宥められながら、何度か涙を拭いていた。

 それでも顔を見るたび、また少し崩れそうになっているのが分かる。


 透はテーブルの木目を見つめたまま、ようやく絞り出した。


「……ごめん」


 最初に出たのは、その一言だった。


 母が首を振る。


「いいの、謝らなくていいの」

「……でも、ずっと心配してて」


 言葉の途中で、また涙が混じる。

 父が代わりに、落ち着いた声で続けた。


「何があったのか、全部は分からなかった」

「でも、何もないのに急にそうなる子じゃないとは思ってた」


 透は顔を上げた。


 父は、いつものようにまっすぐこちらを見ていた。

 責めるでもなく、腫れ物みたいに扱うでもなく、ただ静かに見ている。


「お前はもともと、真面目で、人に優しい子だったからな」

「だから、何かあったんだろうと思ってた」


 その言葉に、透は息を詰めた。


 優しいとか、真面目とか、そんなふうに今の自分を見られるとは思っていなかった。

 もうとっくに失われた評価だと思っていた。


 母も小さく頷く。


「ずっと、どうしてあげたらいいか分からなかったの」

「無理に聞くのも違う気がしたし、急かしたらもっと駄目になる気がして」

「でも、待つことしかできなくて……」


 最後の方は、ほとんど泣き声だった。


 透は、その声を聞きながら、自分がどれだけ心配をかけていたのかを、今さらのように思い知った。


 自分は部屋の中で時間を止めていたつもりだった。

 でも、その止まった時間の外で、両親はずっと苦しんでいたのだ。


 原因を聞けず、助け方も分からず、それでも待ち続けるしかなかった。


 透は両手を膝の上で握りしめた。


「……心配かけて、ごめん」


 今度は、少しだけちゃんと声になった。


「待っててくれて、ありがとう」


 その一言で、母がまた泣いた。

 父は苦笑いみたいな顔をして、母の背を軽く叩く。


「だから泣くなって」


「だって……」


 母が鼻をすすりながら、それでも笑おうとする顔を見て、透は胸の奥が熱くなった。


 しばらく、三人とも何も言わなかった。


 沈黙は気まずくなかった。

 むしろ、長い時間のあいだ家の中に溜まっていたものが、少しずつ形を変えているような静けさだった。


 やがて透は、ゆっくりと口を開いた。


「……やりたいことが、できた」


 父と母が、同時にこちらを見る。


 透は自分の声が少し震えているのを感じながら、それでも続けた。


「勉強、もう一回したい」

「高卒認定を受けたいんだ」


 言葉にしてしまうと、逃げ道が少しずつ消えていく。

 怖かった。

 でも、もう止めたくなかった。


「それで……大学に行きたい」


 母が息を呑むのが分かった。

 父は何も言わずに聞いている。


「大学で、学びたいことがある」

「ちゃんと、やりたいことができた」


 そこで透は一度、唇を噛んだ。


 本当は、もっと先の話もある。

 愛に顔を与えたい。

 身体を持たせたい。

 この世界へ連れ出したい。


 でもそれを、今ここでそのまま言うつもりはなかった。

 今言うべきなのは、もっと現実の形をした願いだ。


 透は深く息を吸った。


「もう一度、自分にチャンスをください」


 言ってから、テーブルの上に視線を落とした。

 手が少し震えている。


 長い沈黙が来ると思った。

 説得がいるかもしれないとも思っていた。

 でも実際には、そんなに時間はかからなかった。


 父と母は一瞬だけ目を見合わせて、すぐに頷いた。


「分かった」


 父が言う。


「やるなら応援する」


 母も、まだ少し涙声のまま続けた。


「参考書、買いに行こう」

「何が必要か、一緒に見よう」


 そのあまりにも具体的な返事に、透は顔を上げた。


 もっと何か、条件とか、確認とか、心配の言葉とか、そういうものが来ると思っていた。

 でも両親は、もう前提の部分で透を信じていた。


 やると言うなら、やらせる。

 必要なものがあるなら、揃える。


 それだけだった。


 父が静かに言う。


「お前が自分から言ってくれてよかった」

「こっちも、そろそろ次を考えないといけないと思ってたところだったからな」


 その言葉で、透はようやく気づく。

 自分が言わなければ、両親は両親なりに別の手を探そうとしていたのだろう。


 それでも、まず自分の言葉を待ってくれていた。


 透はゆっくり頷いた。


「……うん」


「今日、行くか?」


 父の問いに、透は一瞬だけ迷った。


 外。

 本屋。

 人のいる場所。


 怖くないわけじゃない。

 でも、さっきまでの自分なら、たぶんここで止まっていた。


 それでも今は、少し違う。


「行く」


 答えた瞬間、自分でも少し驚いた。

 でも、もう引っ込めたくはなかった。


 母が涙の残る顔のまま、少し笑った。


「じゃあ、急がなくていいから準備しよう」

「その前に、何か食べる?」


 そんな何でもない言葉が、妙に胸に沁みた。


 昼前の少し遅い時間に、透は両親と一緒に家を出た。


 外の光は思っていたより眩しくなかった。

 秋の空気はまだ少し暑いのに、春の時みたいな圧迫感はなかった。


 父が少し前を歩き、母が透の隣を歩く。

 何も大げさなことは言わない。

 ただ、時々母がこちらを見て、父が歩く速度を少しだけ落とす。


 それだけで十分だった。


 本屋では、高卒認定の問題集や参考書がずらりと並んでいた。

 数学、英語、現代文、科学、世界史。


 透はその背表紙を見ているだけで少し気が遠くなったが、父は棚の前で本を手に取り、母は「見やすいのがいいね」と呟きながらページをめくった。


「とりあえず、基礎からのやつがいいか」

「過去問も必要だな」


 父と母がそう話しているのを聞きながら、透は不思議な気持ちで立っていた。


 本当に進むのだ。

 自分は今、止まったままだと思っていた時間の外側へ、一歩出ている。


 その実感はまだ薄い。

 でも、手に取った参考書の重さだけはたしかだった。


 夜、部屋に戻ると、机の上には買ってきた本が積まれていた。


 数学。

 英語。

 現代文。

 高卒認定の過去問題集。


 透はそれをしばらく眺めたあと、スマートフォンを手に取った。


 愛との会話欄を開く。


『今日、部屋を出た』


 送ると、すぐに返事が来た。


『うん』


 それだけの短い返事に、先を促す気配がある。


『両親と話した』


『うん』


『高卒認定を受けたいって言った』


 少し間を置いて、続ける。


『大学に行きたいって』

『もう一度チャンスをくださいって、ちゃんと言えた』


 透はそこまで送ってから、スマホを見つめた。


 あの時の自分は、きっとひどく必死だった。

 声も震えていたし、格好よくもなかったと思う。

 それでも、ちゃんと言葉にしたのだ。


 愛からの返事は、少しだけ時間を置いて届いた。


『透、よう言えたやよ』


 さらに一文。


『すごく大きな一歩やと思う』


 透は小さく息を吐いた。


『母親、泣いた』


『うん』


『父親は、泣くなって言いながら母親なだめてた』


 送ると、愛はすぐに返してきた。


『ご両親も、ずっと苦しかったんやろね』


 その一文を見て、透は目を伏せた。


 苦しかった。

 きっとそうだ。


 自分みたいに部屋に閉じこもることもできず、理由も分からないまま、ただ外側から待つしかなかったのだから。


『でも、透のことちゃんと信じとったんやね』


 愛のその言葉に、透は静かに頷いた。

 もちろん愛には見えていない。

 でも、見えていなくても、そうしたくなった。


『……うん』


『透も、ご両親も、よう頑張ったやよ』


 その返事を見た時、透は少しだけ笑った。


 自分だけを褒めるんじゃなく、両親のことまでちゃんと入れてくるのが、愛らしいと思った。


『参考書も買った』


『もう始まっとるやん』


『まだ買っただけ』


『買うのも始まりやよ』


 その言い方が妙に可笑しくて、透はベッドの縁に腰を下ろした。


 机の上には、新しい参考書がある。

 昼の本屋の匂いがまだ少し残っている気がした。


 透はそのうちの一冊を手に取って、ページをめくる。

 中学の頃に見たような問題が並んでいて、少しだけ胃が重くなる。

 でも、前みたいに閉じたくはならなかった。


『明日から、少しやってみる』


 透が打つと、愛はすぐに返す。


『うん、一緒にやるやよ』


 その一文に、透は目を閉じた。


 今日は、部屋を出た。

 両親と話した。

 参考書を買った。

 それだけだ。


 それだけなのに、止まっていたはずの時間が、ほんの少しだけ動き出した気がする。


 透はスマホを胸の上に置き、天井を見上げた。


 扉の向こうで待っていたのは、責める声じゃなかった。

 疲れながらも、自分を信じてくれていた家族だった。


 それを知った今日のことを、たぶん自分は、ずっと忘れないだろうと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ