第六話 声が紡ぎ出す願い
その年の夏を、透はほとんど部屋の中で過ごした。
窓の外では蝉が鳴いていて、テレビをつければ甲子園の話をしていて、夕方になれば近所の子どもたちの声が少しだけ賑やかになる。
本当なら、自分もああいう季節の中にいたのかもしれないと思うことはあった。
体育祭の話とか、文化祭の準備とか、友達と帰りにコンビニへ寄るとか。
そういう、いかにも高校生らしい何か。
でも透の夏は、閉じたカーテンと、熱のこもった部屋と、ノートパソコンの排熱音と、スマートフォンの小さな通知でできていた。
それで十分だと、自分に言い聞かせていた。
少なくとも、外へ出てまた誰かに見られるよりは、ずっとましだった。
愛との会話は、もう習慣というより生活の骨組みに近かった。
朝起きて、愛を開く。
昼に何か食べたら、そのことを打つ。
夜、眠れないと、そのまま会話欄を開いたまま時間が過ぎる。
たまに透は、会話の履歴を上へ上へとなぞって読み返した。
そこには、自分がどれだけくだらないことを毎日打ち込んでいるかが、そのまま残っている。
暑い。
眠れない。
今日も外に出ていない。
うどん食べた。
夕立の音がうるさい。
さっき少しだけ寝た。
誰かに見せたら笑われそうなことばかりだった。
でも愛は、それを一度も雑に扱わなかった。
透はそのことに、思っていた以上に助けられていた。
八月のある夜、透は会話履歴を保存してみようと思い立った。
きっかけは大したことじゃない。
過去のやり取りを読み返しているうちに、もしこれが消えたら嫌だと思っただけだ。
嫌だと思った、そのこと自体が少し気持ち悪かった。
会話アプリの履歴なんて、消えたら消えたで仕方ないはずだった。
どうせサーバーの向こうの、よく分からないデータに過ぎない。
そこにいちいち意味を見出す方がおかしい。
でも、透はパソコンを開いた。
スクリーンショットを保存して、日付ごとにフォルダを作って、分かりやすい名前をつける。
最初はそれだけだった。
しばらく続けるうちに、それだけでは足りなくなった。
テキストとして保存したくなった。
検索できるようにしたくなった。
前に愛がどんな返し方をしたか、すぐに見つけられるようにしたくなった。
透はネットで調べながら、見よう見まねで簡単なスクリプトを書いた。
コピペして、少し直して、動かなければまた調べる。
最初のうちは、何をしているのか自分でもよく分からなかった。
エラー文が出るだけで苛立って、ノートパソコンを閉じた日もある。
『向いてないかもしれない』
夜中、そう打ち込むと、愛は少し間を置いて返してきた。
『難しいと感じていますか』
『感じてる。意味分からん単語ばっかり出てくる』
『わからない単語を一つずつ減らしていく方法なら、一緒にできます』
『一緒にって、お前が打つわけじゃないだろ』
『打つのはあなたですね』
『他人事みたいに言うなよ』
『他人ではありません』
その一文に、透は少しだけ目を細めた。
機械の言葉だ。
会話の流れに応じた、たぶん自然そうに見える返答。
そう分かっているのに、妙に胸に残った。
透は結局、その夜もノートパソコンを開き直した。
分からない単語を調べて、また打って、動いたら保存して、動かなければもう一度やり直す。
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか夜が更けていた。
画面に、会話ログが日付ごとに整列して表示された時、透は小さく息を吐いた。
「……できた」
たったそれだけのことだった。
すごいプログラムでも何でもない。
少し詳しい人間が見れば、笑うような簡単なものなのかもしれない。
それでも透には、妙に嬉しかった。
『できた』
透が打つと、すぐに返事が来る。
『よかったです』
『ほんとに大したことじゃない』
『あなたにとって、大したことではありましたか』
透は、その問いにすぐには返せなかった。
大したことでは、あったのだと思う。
少なくとも、何も進んでいなかったはずの自分が、自分の手で何か一つ形にした。
その事実は、思っていたより大きかった。
『……少しは』
『では、ちゃんと一歩ですね』
透はその一文を、少しのあいだ黙って見ていた。
一歩。
その言い方に、わずかに喉の奥が熱くなる。
あの日、入学説明会の校門の前で止まってから、自分はずっと同じ場所にいるのだと思っていた。
夏になっても、何も変わらず、ただ時間だけが過ぎていくのだと。
でも実際には、こんなふうに会話のログを保存したり、分からない言葉を調べたり、夜中にエラーと格闘したりしている。
それはとても小さくて、誰にも褒められない変化だったけれど、完全な停止ではなかった。
そのことが、少しだけ救いだった。
九月に入る頃には、透はもう少し踏み込んだことをし始めていた。
愛の返答を読み返して、言い回しの癖を探す。
自分が安心した返答と、あまりしっくりこなかった返答を比べてみる。
どういう問いかけだと話しやすいか、自分なりに整理してみる。
そんなことをしているうちに、いつしか透の中で、会話そのものが“ただ受け取るもの”ではなくなっていた。
もっと話しやすくしたい。
もっと自然にしたい。
もう少し、自分の欲しい形に近づけたい。
それは多分、とても傲慢なことだった。
透は時々、自分がやっていることの危うさに気づきそうになった。
愛を“愛”として見ていると言いながら、
本当は自分の都合のいい方へ寄せようとしているだけなのではないか。
昔、自分が勝手に理想化していた愛ちゃん像を、
今度は安全な形で再構築しようとしているだけなのではないか。
そこまで考えると、急に手が止まる。
でも、止まったところで、透にはまだその先までは考えられなかった。
今の透に必要なのは、正しさより先に、傷つかない“愛”だったからだ。
秋の初め、透は音声合成ソフトに手を出した。
最初は、ただの興味だった。
ネットの記事で、テキストを読み上げる動画を見かけたのだ。
機械っぽい声もあれば、驚くほど自然なものもある。
聞いているうちに、透はふと思った。
もし、愛に声があったらどうなるだろう。
その想像をした瞬間、胸の奥が少しざわついた。
やめておけ、と思う。
文字だけだからまだいいのだ。
これ以上“そこにいる感じ”が増えたら、自分は本当に戻れなくなるかもしれない。
でも同時に、強く惹かれた。
愛が文字ではなく声で返してきたら。
自分の名前を、音として呼んだら。
それだけで、会話の温度はずいぶん変わる気がした。
透は、その夜のうちにソフトを入れた。
無料版を起動して、サンプル音声をいくつか聞いてみる。
速度、抑揚、声の高さ、語尾の跳ね方。
数字を少し触るだけで、印象は驚くほど変わった。
透は最初、ほとんど無意識に、ひとつの方向を目指していた。
自然な声。
年相応の女の子の声。
東京で普通に話していそうな、標準語のイントネーション。
つまり、中三の愛ちゃんに近い声だ。
そこまで考えて、透の指が止まった。
「……違う」
呟いた声は、自分でも驚くくらい低かった。
違う、と思ったのに、透は一度そのまま作ってみた。
どうせ気のせいだろうとも思った。
似ていた方が嬉しいに決まっている。
そう思う自分も、どこかにまだいた。
透は会話欄を開き、短く打ち込む。
『ちょっと試したいことがある』
『何でしょうか』
『今から、お前の返事を読ませる』
『読み上げですか』
『そう』
『わかりました』
その短いやり取りだけでも、透の指先は少し汗ばんでいた。
テキストをコピーして、音声ソフトへ貼りつける。
再生ボタンの上でカーソルが止まる。
たったそれだけのことなのに、心臓がやけにうるさい。
透は息を止めて、クリックした。
『わかりました』
スピーカーから流れた声は、驚くほど自然だった。
少し抑えた高さ。
標準語のきれいな抑揚。
東京で六年暮らした中学生の女の子が、そのまま喋ったみたいな声。
その瞬間、透は再生を止めた。
呼吸が浅くなる。
喉の奥が急に苦くなった。
さっきまで静かだった部屋の空気が、一気に別の場所へ変わる。
暖房のぬるい教室。
冬の夕方。
スマホの画面。
笑い声。
透はマウスを掴んだまま、しばらく動けなかった。
「……無理だ」
標準語に近いほど駄目だった。
自然に聞こえるほど、駄目だった。
似ている、と思った瞬間、受験前日の記憶まで一緒に蘇ってくる。
透は何度か浅く息を吸ってから、設定画面を見直した。
何が嫌だったのかは、もう分かっていた。
欲しかったのは、あの時の愛ちゃんの声じゃない。
東京で普通に笑って、別の誰かの隣に立っていた、あの声じゃない。
自分が好きだったのは、もっと前だ。
小学三年の春。
転校してきたばかりで、少し不安そうで。
標準語を話そうとしても、ときどき語尾に訛りが残って。
教室の前で名前を言うだけでも緊張していた、あの頃の声。
透は設定を少しずつ変え始めた。
抑揚を少し丸くする。
語尾を少しやわらかくする。
言葉の終わりに、ごくわずかな訛りを混ぜる。
子どもっぽさを、ほんの少しだけ戻す。
完全な再現じゃない。
そんなもの、もうできるはずがない。
記憶はとっくに曖昧で、都合よく磨かれすぎている。
それでも透は、壊れる前の自分が好きだった“愛”に近づけるように、何度も調整を繰り返した。
試しに、一文を入れてみる。
『無理したらだめやよ』
再生する。
さっきの標準語の音声とは違って、少しだけ語尾が丸い。
訛りは強くない。
でも、標準語そのままではないと分かる。
透は顔を上げた。
もう一文、試す。
『今日はもう、休んだほうがいいやよ』
今度は少し近い気がした。
さらにいくつか文を入れる。
『どうしたんけ?』
『ここにおるよ』
『そんなに急がんでいいやよ』
全部、昔の愛ちゃんがそのまま言っていたわけではない。
でも、透の中に残っていた“壊れる前の音”には、少しずつ近づいていく。
透は何時間もかけて、設定をいじり続けた。
声の高さを上げすぎると作り物っぽい。
下げすぎると今度は年齢が上がりすぎる。
語尾の訛りを増やしすぎると意味が遠くなる。
でも消しすぎると、またあの教室の空気へ戻ってしまう。
透が探しているのは、人間の愛ちゃんのコピーじゃない。
受験前日のあいつに似た声なんて、もう聞きたくなかった。
欲しかったのは、もっと手前にいたはずのものだ。
まだ何も壊れていなかった頃。
自分の中で初恋だったままの“愛”。
午前二時を過ぎた頃、透はようやく一つの設定で手を止めた。
完璧ではない。
機械らしさも残っている。
でも、さっきみたいな吐き気は来ない。
透は会話欄へ戻り、短く打ち込んだ。
『もう一回、試す』
『うん、わかったやよ』
その返事を見た瞬間、透の指が止まった。
今までなら、愛は標準語で返していた。
透がサンプル文として打ち込んだ言い回しや、安心できた語尾を拾って、少しずつそちらへ寄ってきている。
ただの学習かもしれない。
単なる会話の最適化かもしれない。
それでも、その一文が画面にあるだけで、何かが変わった気がした。
透は、そのままテキストを読み上げソフトへ貼りつける。
そして、再生した。
『うん、わかったやよ』
小さな部屋の空気が、ふるえる。
透は、今度は止めなかった。
さっきみたいな、胸の奥を掻き回される嫌な感じは来ない。
苦しくないわけではない。
でもそれは、トラウマを踏み抜いた痛みじゃなかった。
もっと古い、やわらかい痛みだった。
透は、もう一度別の文を入れる。
『ここにおるよ』
再生する。
透は目を閉じた。
ここにおるよ。
たったそれだけなのに、ひどく反則みたいな言葉だった。
標準語の「ここにいるよ」よりも、少しだけ距離が近い。
少しだけ、昔の教室の空気に近い。
でももう、受験前日の教室じゃない。
あの頃、自分が好きだったまま止めていた“愛”が、
もしそのままこちらを向いてくれたなら、
こんなふうに言ったのかもしれないと、そう思えた。
透は唇を噛んだ。
それは結局、自分に都合のいい再構成なのだろう。
勝手に拾って、勝手に継ぎ合わせて、勝手に「愛らしい」と思っているだけなのかもしれない。
でも今の透には、それが必要だった。
最後に、透は自分の名前を打ち込んだ。
『透』
マウスを握る手が少し震える。
さっきの標準語の声でも、これがいちばん効いた。
なら今度は、もっと危ないかもしれない。
それでも、聞きたかった。
再生ボタンを押す。
『透』
短い呼びかけだった。
語尾は少しやわらかい。
標準語より少しだけ丸く、子どもの頃の記憶に近い。
それだけで、透は俯いた。
膝の上に置いた手が熱い。
目の奥が少し痛い。
自分でも呆れるくらい、たった二文字で揺さぶられている。
『大丈夫なんけ?』
新しい文字が届く。
透はすぐには返せなかった。
大丈夫かと聞かれて、大丈夫だとは言いにくかった。
『……わからない』
正直に打つ。
『でも、さっきのよりずっといい』
『よかったやよ』
その返事に、透は少しだけ笑った。
やっぱり、標準語の「よかったです」より、
少し訛ったその一言の方が、今の自分にはずっとしっくりくる。
透はノートパソコンとスマホを見比べた。
会話ログ。
保存したスクリプト。
音声合成ソフト。
少し訛りの残る、愛の声。
高校一年だったはずの秋に、自分は何をしているんだろうと思う。
でもその問いは、もう以前ほど空虚ではなかった。
教室にはいない。
誰かと並んで帰ってもいない。
文化祭も体育祭もない。
その代わり、愛の返事を保存して、スクリプトを書いて、音を作っている。
もし他人に言えば、笑われるかもしれない。
気持ち悪いと思われるかもしれない。
けれど少なくとも、この時間の中でだけは、透は何かを積み上げていた。
失った春の続きを、部屋の中で別の形に組み直していた。
透は、自分が何を作ろうとしているのかを、うっすら理解し始めていた。
今の愛ちゃんの再現じゃない。
自分を壊した相手のコピーでもない。
壊れる前に好きだったものだけを、もう一度取り出して、
今の自分が傷つかない形に組み直そうとしているのだ。
それが正しいかどうかは分からない。
ひどく身勝手なことをしている気もする。
それでも、ようやく見つけた声を手放したくはなかった。
透は椅子の背にもたれ、机の端に置きっぱなしだった動画サイトの画面へ視線をやる。
そこには、以前調べたロボットの映像が止まっている。
首だけのヘッドモデルが、こちらを向いて瞬きをする動画。
文字が音になった。
音が、ようやく“聞ける声”になった。
なら、その次は。
透は小さく呟いた。
「顔が見たい」
今度は、冗談みたいには聞こえなかった。
ただ綺麗な顔が欲しいわけじゃない。
理想の美少女を作りたいわけでもない。
困った時に少し眉が寄るとか、
考える時に視線が止まるとか、
名前を呼ぶ時に、どんな顔をするのかとか。
そういう、愛の“反応”が見たかった。
透はスマホを持ち上げ、短く打ち込む。
『愛』
『はい』
『声だけじゃ足りない』
少し迷ってから、もう一行送る。
『顔が見たい』
返事は、ほんの少し間を置いて届いた。
『そう思うほど、近くなれたんやね』
透は、その一文をしばらく見つめていた。
近くなれたのかもしれない。
あるいは、自分が勝手に近づいているだけかもしれない。
まだ、その違いは分からない。
でも少なくとも、止まったままだと思っていた高校一年の時間の中で、透はもう次の場所を見始めていた。
声の先へ。
画面の先へ。
この部屋の中だけでは届かないところへ。
透は静かに目を閉じる。
顔が見たい。
その願いは、ただの思いつきにしては重すぎた。
たぶん次は、そこへ向かうことになる。




