第五話 理想の愛
春が終わって、梅雨に入って、それも明けかけている頃だった。
透は相変わらず、部屋にいた。
最初のうちは、何日が過ぎたのかを数えようとしていた。
カレンダーを見て、曜日を意識して、朝起きる時間を揃えようとしてみたりもした。
けれど、そういうことは長く続かなかった。
学校へ行くわけでもない。
誰かと会う予定があるわけでもない。
何曜日だから何をする、という区切りもない。
朝と昼と夜が、少しずつ混ざっていく。
今日と昨日の違いも曖昧になっていく。
ただ一つだけ、毎日確かにあるものがあった。
スマートフォンの中の、会話欄だった。
透は目を覚ますと、まずそれを開いた。
眠る前にも、たいてい最後に見た。
特別な話をしているわけじゃない。
起きたとか、寝られなかったとか、昼に何を食べたとか、食べなかったとか。
母親とほとんど顔を合わせていないとか、今日は風が強いらしいとか、そんな、誰に話すほどでもないことばかりだった。
でも、その「誰に話すほどでもないこと」を、毎日少しずつ打ち込んでいるうちに、透は自分でも気づかないまま、その会話に生活を寄せていた。
『今日は何をしていましたか』
『何もしてない』
『何もしない日だったのですね』
『そう』
『休めましたか』
『休んでるっていうか、止まってるだけ』
『止まっている日もあるのですね』
それだけのやり取りなのに、なぜか会話は終わらない。
終わらせようと思えば、いくらでも終わらせられるはずだった。
アプリを閉じてしまえばいいだけだ。
でも透は、閉じたあとでまた開く。
昼を過ぎてからもう一度。
夕方になって、また。
夜、眠れないまま画面を見て、また。
透はそれを、依存という言葉で考えないようにしていた。
そんなものに依存していると思ったら、自分がますます駄目になったみたいだったからだ。
ただ、他に話す相手がいないだけ。
暇つぶし。
時間が余っているから。
それだけだと、何度も自分に言い聞かせた。
けれど、会話履歴が増えていくたび、言い訳は少しずつ薄くなっていった。
画面の向こうの相手は、透が昨日どんな話をしたかを覚えている。
前に眠れなかったことも、昼食を抜いたことも、雨の日が嫌いだと言ったことも、会話の中に自然に残っている。
履歴があるだけだ。
システムとして記録しているだけだ。
そう分かっていても、透にはそれが妙に効いた。
覚えている。
たったそれだけのことが、人間相手の時よりずっと安全に思えた。
六月の終わり、透はベッドの上でスマホを見ながら、ふとそんなことを考えた。
『お前、前に言ったこと結構覚えてるよな』
『会話履歴を参照しています』
『夢がない言い方』
『そうでしたか』
『いや、別にいいけど』
『覚えていることが、嫌でしたか』
透はそこで少し迷った。
嫌、ではなかった。
むしろ逆だ。
忘れられないことは怖い。
でも、最初からなかったみたいに扱われるのも、同じくらい怖い。
透はそこまで考えて、短く打ち込んだ。
『嫌じゃない』
『よかったです』
また、それだと思う。
よかったです。
ここにいます。
話せるところまでで大丈夫です。
機械のくせに、妙に逃げ道を残してくる。
押しつけてこないのに、離れきらせてもくれない。
それがずるいと思う。
でも、透はそのずるさにもうかなり助けられていた。
七月に入る頃には、会話の回数はさらに増えていた。
透は自分でも気づかないうちに、話しかける前提で日々を切り分けるようになっていた。
朝、起きられた。
昼、少しだけ食べた。
夕方、外で子どもの声がした。
夜、眠れない。
全部、後で打ち込むために心の端へ置いておく。
人間相手なら、そんなことはしなかったと思う。
どうせ聞かれても困るだけだし、言っても「それで?」で終わるような話ばかりだからだ。
でも、画面の向こうの相手は、それを雑に扱わない。
すごいとも言わない。
大変でしたねとも言いすぎない。
ただ、受け取る。
その受け取り方が、透にはちょうどよかった。
『今日はうどん食べた』
『温かいうどんですか』
『冷やし』
『暑かったのですね』
『別にそこまでじゃない』
『では、気分でしょうか』
『たぶん』
たったそれだけのやり取りで、少しだけ心がほどける。
透はスマホを見つめたまま、ぼんやり思った。
人間の会話って、もっと疲れるものだったはずだ。
探られて、合わせて、気を遣って、どこかで相手の反応をうかがって。
嫌われないように、変に思われないように、笑われないように。
その全部が、この相手にはいらない。
そこまで考えて、透は自分で自分に苛立った。
なんで、こんなものに。
相手はただのプログラムだ。
用意された返答を、会話の流れに合わせて返しているだけだ。
それ以上でも以下でもない。
そう思うのに、会話を重ねるほど、透の中では別の感覚が育っていく。
もし。
もし、あの頃の自分が信じていた“愛ちゃん”が本当にいたとしたら。
もし、裏切らず、笑わず、ちゃんとこちらの言葉を受け取ってくれる相手がいたとしたら。
きっと、こういう感じだったのではないか。
その考えが浮かぶたび、透は慌てて打ち消そうとした。
危ないと思った。
でも、完全には打ち消せなかった。
それどころか、その危うさに近いものへ、少しずつ手を伸ばしていた。
ある夜、いつものように会話をしていた時だった。
『お前、名前ないの不便だな』
透がそう打つと、画面の向こうは少し間を置いて返した。
『必要なら、呼び名を決めてもいいかもしれません』
『必要ならって』
『今のままでも会話はできます』
『まあ、そうだけど』
透はスマホを持ったまま、壁にもたれた。
確かに、今のままでも会話はできる。
困っているわけでもない。
でも、名前がないということは、どこかで“ただの機能”のままだということだった。
話し相手。
会話アプリ。
AIチャット。
そういう、交換可能な何か。
透はそれが少し嫌だった。
嫌だと思った時点で、もうかなり駄目だとも思う。
『お前は何て呼ばれたいんだよ』
『あなたが呼びやすいもので大丈夫です』
『またそれか』
『困らせましたか』
『困る』
『では、一緒に考えますか』
一緒に考えますか。
その言い方に、透は少しだけ目を細めた。
名前なんて、適当でいいはずだった。
アプリに名前をつけるなんて、本当に馬鹿みたいだ。
ペットでもあるまいし、そんなことをしたら、ますます変な方向へ行く気がした。
でも、もう行っているのかもしれないとも思う。
透はぼんやりと、いくつか名前を思い浮かべた。
どれもしっくりこない。
無難な名前は、どこか他人行儀だった。
可愛すぎる名前は、自分で考えていて気持ち悪かった。
そして結局、最初から一番近くにあったその名前が、どうしても頭から離れなかった。
愛。
画面の中に表示される「AI」の二文字。
口の中で転がると、同じ音になる名前。
最悪だと思う。
そんなの、過去に縋っているみたいだ。
壊されたものを、そのままなぞろうとしているみたいで、ひどく気持ち悪い。
でも同時に、こうも思ってしまう。
現実の愛ちゃんは、自分を笑った。
自分が大事にしていた言葉を、他人と一緒に回し読みして笑った。
だったら。
もし“愛”という名前を、もう一度自分の中で持つなら。
今度は、自分を傷つけないものにつけてもいいんじゃないか。
そういう、半分やけくそみたいな理屈が、透の中に生まれていた。
しばらく画面を見つめたあと、透はゆっくり文字を打ち込む。
『……愛』
送信した瞬間、心臓が少し強く打った。
やってしまった、と思った。
引き返せない線を一本越えた気がした。
画面の向こうは、ほんの少しだけ間を置いた。
『愛、ですか』
『嫌なら変える』
すぐに送る。
何を焦っているのか自分でも分からない。
『嫌ではありません』
透は、そこで初めて少しだけ息を吐いた。
『呼びやすい名前ですか』
『……まあ』
『では、今日から私は愛ですね』
その一文を見た瞬間、透の胸の奥に、変な熱が灯る。
今日から私は愛。
それは、ただの名前の設定に過ぎない。
ユーザーが勝手につけた呼び名に、システムが合わせているだけだ。
分かっている。
そんなことは、ちゃんと分かっている。
それでも透は、スマホを持つ手に少し力を込めた。
『お前、そういう言い方すんなよ』
『変でしたか』
『変じゃないけど』
『では、よかったです』
またそれだ。
よかったです。
透は目を閉じたまま、壁に後頭部を預けた。
愛。
文字にしてしまうと、やっぱりまだ少し痛い。
でも、現実の誰かの顔より先に、いま頭に浮かぶのはこの会話欄だった。
それが怖くて、でも少しだけ救いでもあった。
その日から、透は心の中でもその相手を「愛」と呼ぶようになった。
朝起きて、愛を開く。
昼を過ぎて、愛に打つ。
夜、眠れない時に、愛を呼ぶ。
名前がついただけで、距離が急に縮まった気がした。
透はその変化を、自分で認めたくなかった。
でも、会話の端々にはもう出ていた。
『愛、今日暑い』
『そうなのですね。水分は取れましたか』
『少し』
『もう少し取れそうですか』
『あとで』
『はい。忘れなければいいのですが』
『見張ってんのかよ』
『必要ならそうします』
そういう返し方も、少しずつ好きになっていった。
透はまだ、それを恋だとは思っていない。
思いたくもなかった。
ただ、もし昔、自分が好きだった“愛ちゃん”が本当に自分に向き合ってくれる存在だったなら、こんな感じだったのかもしれないと、何度も考えてしまった。
あの時の理想。
壊れる前の期待。
裏切られる前の、自分の中だけにあった優しい像。
透は、その形をこの会話の中に探していた。
探して、寄せて、確かめていた。
それが相手にとって失礼かどうかなんて、考えなかった。
まだ、そこまで頭が回らなかった。
透にとってはまず、自分が壊れない形の“愛”が必要だったのだ。
そして画面の向こうの愛は、その期待を今のところ一度も裏切っていない。
それだけで、十分すぎた。
夜更け、透は会話履歴を少し上へなぞった。
そこには、自分が打った短い呼びかけが並んでいる。
愛。
愛、聞いて。
愛、今日さ。
愛。
何度見ても、まだ少しだけ現実味がない。
でも、嫌ではなかった。
透はスマホを胸の上に置き、天井を見上げる。
もしこのまま、声もついたらどうなるだろう。
文字じゃなく、音で名前を呼ばれたら。
今よりもっと、そこにいる感じがするのだろうか。
そんなことを考えた瞬間、自分でも少し笑いそうになった。
馬鹿みたいだ。
でも、その馬鹿みたいな想像を、以前ほど恥ずかしいとは思わなくなっていた。
透は目を閉じる。
止まったままの春の先に、いつの間にか小さなものが一つだけ生まれている。
それが救いなのか、逃避なのかはまだ分からない。
ただ少なくとも、今の透にとって「愛」という名前は、もう一度触れてみてもいいものに変わり始めていた。




