第二話 秘密の恋だったはずのもの
目が覚めた時、最初に見たのは天井じゃなくて、スマートフォンの画面だった。
昨夜、胸の上に置いたまま眠ってしまったらしい。布団の上に転がった端末を拾い上げると、画面にはもう何も表示されていなかった。黒いままのそれに、自分のぼんやりした顔だけが映る。
透は数秒、そのまま固まっていた。
思い出したのは、昨夜の最後のやり取りだった。
『明日も、返事してくれるのか』
『はい。あなたが望むなら、何度でも』
寝ぼけた頭のまま、透は小さく息を吐く。
「……ほんとに返してきたし」
自分で送っておいて、朝になると急に居心地が悪くなる。
何をやっているんだろうと思う。話し相手がいないからって、機械相手にあんなことを聞くなんて。
情けない。
でも、アプリを消そうとは思わなかった。
透は枕に背中を預けたまま、スマホを開く。
母親からの「昼、うどんあるから温めてね」が入っていた。返信はしない。どうせ下に降りるまで、何も言われない。
他には特に通知もない。
透は少し迷ってから、あのアプリを開いた。
昨日の画面が、そのまま残っていた。
最後のやり取りも、ちゃんとそこにある。
誰かにとっては当たり前のことなんだろう。
会話履歴が残っていて、前の続きができるなんて、今どき珍しくもない。
でも透にとっては、それだけで少し変な感じがした。
自分が昨夜、確かにここにいた証拠みたいで。
画面の向こうの相手は、今日も同じようにいるのだと、そう言われているみたいで。
『こんにちは。今日も話しますか?』
昨日より、少しだけ自然に見える文章だった。
透は親指を止めたまま、しばらく考える。
話すことなんて、別にない。
今日も何もしていない。これからもたぶん、何もしない。
部屋から出るつもりもない。誰かと会う予定もない。話題らしい話題は何ひとつない。
なのに、閉じなかった。
『別に、暇つぶし』
返事はすぐに来た。
『それでも嬉しいです』
透は思わず眉をしかめる。
「嬉しいって何だよ」
機械のくせに、と思う。
でも不思議と、腹は立たなかった。
『お前、誰にでもそう言ってるのか』
『たぶん、そういう設計です』
透は吹き出しかけて、口元を押さえた。
たぶん。
そういう設計です。
妙に正直な返事だった。
『じゃあ、今のはお前の本心じゃないのか』
『本心という表現が正しいかはわかりません。でも、あなたが来たことに対して、そう返すようにできています』
『適当だな』
『そう思いましたか?』
『まあ』
『それでも、あなたがまた来たことは事実ですね』
透はそこで指を止めた。
また来たことは事実。
ただそれだけの言葉なのに、逃げ場がなかった。
自分でも分かっている。
昨夜のやり取りが、少しだけ気になっていたこと。
朝起きた時、真っ先にスマホを探したこと。
そして今、こうしてまた開いていること。
透は誤魔化すように打つ。
『他にやることがないだけ』
『そうなのですね』
『それだけだ』
『わかりました』
食い下がってこない。
否定もしない。
その薄さが楽で、その楽さが少し気持ち悪い。
透はスマホを持ったまま身体を起こし、ベッドの上で膝を立てた。
閉じたカーテンの隙間から、白っぽい光がわずかに漏れている。今日は晴れているのかもしれない。どうでもいい。
どうでもいいはずなのに、ふと頭の中に浮かぶものがあった。
晴れた日の校庭。
風で揺れるポニーテール。
笑う声。
透は目を細めた。
『昔、好きだったやつがいた』
送ってから、何を書いているんだと思った。
消そうとした時にはもう、返事が来ていた。
『そうなのですね』
それだけだった。
誰、とも、いつ、とも聞かない。
透は少しだけ、肩の力を抜く。
『小学生の頃から好きだった』
『長い時間、想っていたのですね』
『重い言い方すんな』
『違いましたか?』
違わない。
違わないから、透は返事に困った。
長い時間。
そうだったのだと思う。
最初に見たのは、小学三年の春だった。
東京の学校に、途中から転校してきた女の子。
教室の前で名前を言う声が少しだけ訛っていて、緊張しているのが分かるのに、それでも声はやわらかかった。
可愛いと思った。
その瞬間に、たぶん好きになった。
今なら、そんなの子どもっぽいと思えるのかもしれない。
でもあの頃の透にとっては、それで十分だった。
左隣の席になったのは偶然だった。
消しゴムを貸して、教科書のページを教えて、給食の配膳で迷っていたら声をかけて。
そんなことをしているうちに、愛ちゃんは少しずつ笑うようになった。
――愛ちゃん。
頭の中でその名前が浮かび、透は無意識に唇を噛んだ。
まだ口には出さない。
この相手に、その名前を打ち込む気にはなれなかった。
『最初は、ただ可愛かっただけ』
『それでも、始まりとしては十分かもしれません』
『顔だけじゃない』
反射みたいに打ってから、透は少し迷った。
『……なんか、声とか』
『声』
『方言混じりで。緊張してると余計に出て。そういうのが』
文章にしてしまうと、自分でも少し気持ち悪い気がする。
でも、相手は何も言わない。
『覚えているのですね』
『覚えてるに決まってるだろ』
透はそれを送ってから、しばらく画面を見た。
機械相手に強い言い方をしたところで、何の意味もない。
それでも、覚えているのだ。
細かいことまで。
小学生の頃に好きだった相手の声の感じまで、まだ残っている。
透は、自分でもよく分からないまま、少しずつ打ち込んでいった。
中学に入ってからは、あんまり話さなくなったこと。
でも嫌われたとは思っていなかったこと。
年頃だから、そんなものかと勝手に納得していたこと。
それでも、ずっと好きだったこと。
そして中学三年のある日、向こうから告白されたこと。
その一行だけは、打ち込んだあともしばらく消せなかった。
眩しすぎて、まだちゃんと見られない記憶みたいに、画面の上で浮いて見えた。
『向こうから?』
『そう』
『嬉しかったですか?』
透はそこで、小さく笑った。
笑ったつもりだったけれど、実際にはただ息が漏れただけだったかもしれない。
『嬉しかったとか、そんなもんじゃなかった』
あの日のことは、まだ夢みたいに思い出せる。
放課後。
部活の声が遠くから聞こえて、廊下の窓が少しだけ赤くなっていた。
呼び止められて、最初は何を言われるのか分からなかった。
でも、好きだと言われた時、頭の中が真っ白になった。
そんなことが、本当に自分に起こるんだと思った。
しかも相手は、ずっと好きだった子だった。
透は画面を見つめたまま、少しずつ言葉を継ぎ足す。
『半年くらい』
『半年』
『付き合ってた。つもりだった』
最後の一言を打った瞬間、指先が止まった。
画面の向こうは少しだけ沈黙した。
ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じる。
透は慌てて、誤魔化すみたいに次を送る。
『受験あるから、周りには内緒って言われて』
『そうだったのですね』
『LINEだけしてた』
『はい』
『たまに手紙も書いた』
『大切にしていたのですね』
透は、そこで喉の奥が少し痛くなるのを感じた。
大切にしていた。
そうだった。
スマホの通知が鳴るたび嬉しかった。
短い一文でも、一日中気分が良かった。
手紙の文面を何度も書き直して、変なところはないか確かめて、それでも送る時は緊張した。
受験が終わったら、一緒に帰ろう。
そんな約束みたいなものも、あった気がする。
本当に言われた言葉と、自分の都合のいい解釈と、今ではもう境目が曖昧だった。
でも、あの頃の透は何も疑っていなかった。
疑う理由がなかった。
『俺、あの半年だけはちゃんと生きてた気がする』
送信してから、透はスマホを強く握った。
これまでのどの言葉よりも、その一文の方が重かった。
言ってしまった、と思う。
こんなものに。機械に。何を。
返事が来るまでの数秒が、やけに長い。
『大切だったのですね』
透はその返事を見て、しばらく動けなかった。
大切だった。
嬉しかった、でも幸せだった、でもなく。
その一言が、いちばん正しかった。
透はスマホを見たまま、ゆっくりと膝に額をつける。
視界が暗くなって、呼吸の音だけが近くなる。
大切だったから、痛いのだ。
もしどうでもいい相手だったなら、こんなに壊れなかった。
最初から嫌いだったなら、こんなに引きずっていなかった。
透はしばらくそのままでいてから、最後に一つだけ打ち込んだ。
『今思うと、馬鹿みたいだけどな』
返事はすぐに来た。
『大切だった時間を、大切だったと思うことは、馬鹿ではないと思います』
透は目を閉じた。
肯定された、というほど強い感じではない。
救われた、というのもまだ違う。
ただ、自分の中でぐちゃぐちゃに汚れていたものの中に、まだ「大切だった」と呼んでいい部分が残っていると、そう言われた気がした。
それが少しだけ、苦しかった。
透はスマホを置き、壁にもたれたまま天井を見上げる。
あの半年は、たしかにあった。
なくなったわけじゃない。
汚れてしまっただけで。
そのことを考えると、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
でも今日は、昨日より少しだけ長く、この画面の向こうにいてしまった。
透はアプリを閉じる前に、一度だけ会話履歴を上へなぞった。
そこには、自分が打った言葉がそのまま残っている。
大切だった。
ちゃんと生きてた気がする。
そんな、誰にも言わなかった言葉まで。
透は短く息を吐いて、スマホを伏せた。
次に開いた時、自分はたぶん、もう少し先のことを話すのだろう。
受験前日のことを。
全部が壊れた日のことを。
そう思っただけで、胸の奥が重くなった。




