この世界
会場を埋め尽くす光の洪水。
オーケストラが奏でる優雅なワルツに合わせて、着飾った貴族たちが蝶のように舞い、笑い声を響かせている。その中心で、私はただ、コルセットの締め付けによる吐き気と闘いながら、壁際で息を潜めていた。
「これは、これは。アンナ。今日の君はいつもに増して美しい。」
馬車の中で母が少し言っていた気がする。私の許嫁の……。
「……ああ、どうも」
私はすぐに背を向けて去った。吐き気で、とても誰かと話せる状況ではなかったからだ。
(早く終わって……。一刻も早く、ここから逃げ出したい)
だが、私の願いとは裏腹に、宴の「真の幕開け」は唐突に訪れた。
会場の奥にある巨大な両開きの扉が放たれ、白いクロスを掛けられたサービスワゴンが、次々と運び込まれてくる。一台、また一台と、止まることのない列をなして。
ワゴンの上には、何やら巨大な盛り合わせが鎮座しているようだ。
(……流石、本物の貴族の宴ね。用意されている量が尋常じゃないわ。)
私は、その圧倒的なボリュームに少しだけ感動を覚えながら、その光景を眺めていた。これだけの料理が振る舞われるのなら、私の不自然な食欲不振も、紛れて誤魔化せるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
合図の鐘が、高く鳴り響いた。
給仕たちが一斉に手をかけ、ワゴンを覆っていた白いクロスを、天高く舞い上げる。
「え……?」
視界に飛び込んできたものを、私の脳は、最初は「装飾品」か何かだと判断しようとした。あまりにも、現実離れしていたから。
「なに……これ……」
思考が真っ白に染まる。
そこに横たわっていたのは、調理された肉でも、彩り豊かな野菜でもなかった。
ワゴンに固定された銀の皿の上。そこにいたのは、生きた人々だった。
それも、ただの人間ではない。透き通るような肌を持ち、耳の尖った美しいエルフ。そして、逞しい体躯をした若い男たち。
彼らは猿ぐつわを嵌められ、手足を不自然な角度で拘束され、ただ、絶望に濁った瞳で天井を見つめていた。
私は思考が追いつかず、ただただ、その場にしばらく立ち尽くしかなった。
「さあアンナ。ボサッとしていないで。あなたは私と同じ、純血のスノーエルフから頂くのよ。これでようやく元気になれるわね」
いつの間にか隣にいた母が、満面の笑みで二つのワイングラスを持ち、一つを私に差し出してきた。
クリスタルのグラスの中で揺れているのは、宝石のように美しい、けれどおぞましいほどに鮮やかな「真っ青な液体」だった。
母はそれを、極上のシャンパンでも味わうかのように、優雅に口に運ぶ。
ゴク、と喉が鳴る音が、静かな会場に響いた気がした。
「はぁ♪ ……これだわ。やっぱり、新鮮なスノーエルフの魔力混じりの血は、肌の艶が違うわ!」
「御母様……これは、一体……」
私の声は、小刻みに震えていた。だが、母には届かない。母は恍惚とした表情で、空になったグラスを見つめている。
周囲を見渡せば、地獄が具現化していた。
「こちらにも頼む。もっと若い女のものを!」
「はい、ただいま」
給仕が熟練の手つきで、皿の上の人間の腕に銀の針を突き刺す。
管を通じて、ボトルのような容器に真っ赤な、粘り気のある液体が満たされていく。それを、着飾った貴族たちが、乾いた喉を潤すようにゴクゴクと飲み干していくのだ。
「穢れのない若い女の血は最高だな。この芳醇な香り、ヴィンテージものにも引けを取らん」
「あら、この青年も中々ですわよ。筋肉に張りがあって、血まで喉越しが素晴らしいわ」
聞こえてくるのは、反吐が出るほどおぞましい「美食家」たちの会話。
その輪の中に、父の姿もあった。
「次は私がこちらを頂こうか。精のつく、若い戦士の血を」
(御父様まで……!)
私は口元を押さえ、こみ上げる酸っぱいものを必死に飲み下した。
その時、会場の至る所から、つんざくような悲鳴が上がり始めた。
針を刺された者、指を切り落とされた者、生きたまま「削がれて」いく者たち。
彼らの断末魔が、優雅なワルツの旋律と混ざり合い、狂気の不協和音を奏でている。
「いや……嫌……!!」
私は、手に持たされたグラスを投げ捨てようとしたが、指が硬直して動かない。
狂っている。この世界の貴族は、人々を「食糧」として食べ、慈しむように屠殺する、化け物の集団だったのだ。
「だめ……早く、ここから逃げなきゃ……!」
私はドレスの裾を掴み、狂乱の宴を背にして走り出した。
背後からは、母の暢気な声が追いかけてくる。
「あらあらはしゃいじゃって。アンナ、まったくはしたない。そんなに喉が渇いていたのかしら」
違う。そうじゃない。
私は、あなたたちとは違う!
無我夢中で外へ向かって走った。
会場の外へ飛び出すと、そこには驚くほど静かな夜が広がっていた。
さっきまでの悲鳴も、血の匂いも、すべてが幻だったかのように、美しい月光が庭園を照らしている。
私は荒い息を吐きながら、冷たい手すりに縋り付いた。
ふと、手に持ったままだったグラスを見る。
激しく走り抜けたはずなのに、中に入った真っ青な液体は、一滴も溢れていなかった。まるで、それ自体が私の手の一部であるかのように、吸い付いている。
「お姉さま、大丈夫?」
背後から聞こえた聞き慣れた声に、私は弾かれたように振り返った。
「レイラ……! 無事だったのね、良かった……」
私は妹に駆け寄り、その肩を掴んだ。
「早く、私と一緒にここから逃げましょう。ここは狂っているわ。みんな、化け物なのよ!」
だが、レイラは動かなかった。
彼女は私の焦燥などどこ吹く風で、口元をハンカチで拭いながら、ンフフ♪ と可愛らしく喉を鳴らした。
「逃げる? どうして? せっかくの御馳走なのに」
「レイラ……?」
「お姉さま、このエルフの耳のスナック、とっても美味しいですわよ♪ 香ばしくって、中から魔力がジュワッて溢れてくるの。お姉さまも、一緒にどうかしら?」
彼女が差し出してきた小さな銀の皿。
そこに乗っていたのは、紛れもない――先ほどまで生きていたはずの者の、体の一部だった。
バリンッ。
私の手から、クリスタルのグラスが滑り落ちた。
石畳の上で粉々に砕け散り、真っ青な液体が、私のドレスの裾を汚していく。
砕けたのは、グラスだけではなかった。
私がこの世界で唯一信じようとした「家族」という幻想も、私の内側に残っていた「人間」としての誇りも、その音と共に消えさっていく物だった。
私は、無邪気に笑い続けるレイラの瞳を見つめる。
その瞳の奥には、私と同じ――暗く、底なしの「渇き」が宿っていた。
ああ、そう。
私は、ただの悪役令嬢なんかじゃない。
私は、家族やここにいる貴族達と同じ、化け物の一員だったのね。
足元に飛び散ったグラスの破片が、冷たい月光を反射して、私を嘲笑うように輝いていた。




