硝子の心
馬車が石畳を叩く規則的なリズムが、今の私には子守唄のように響いていた。
窓枠にそっと指をかけ、外を眺める。
そこには、前世の記憶にある「映像」とは比較にならないほど鮮烈な、本物の異世界が広がっていた。
夕闇に溶けゆく空は、深い群青色から燃えるような琥珀色へとグラデーションを描いている。街路灯には魔石が仕込まれているのか、淡く青白い光が、まるでお伽話の魔法の粉のように道筋を照らしていた。
通り過ぎる建物の彫刻、行き交う人々の色鮮やかな装束、そして夜の風に乗って運ばれてくる、名も知らぬ花の芳香。
(……綺麗。本当に、ここが私の生きる場所なのね)
あまりの美しさに、胸の奥が締め付けられる。
それは、現代社会の喧騒の中で、色のない日々を送っていた「私」が、心の底から求めていた光景だったのかもしれない。
「ねえ、お姉さま。聞いているの? 王子様が、今夜は特別な趣向を用意してるって噂よ」
隣でレイラが、はしゃいだ声で話しかけてくる。
彼女の唇が動き、何らかの言葉が紡がれているのはわかる。けれど、今の私の意識は、窓の外を流れる幻想的な風景に完全に奪われていた。声は鼓膜を震わせるだけで、意味として脳に届かない。
「アンナ、いい加減になさい」
冷ややかな声が、魔法を解くように響いた。
母が、扇で膝を叩きながら、不機嫌そうに私を睨んでいる。
「景色なんて、毎日見ているでしょう。そんなに珍しそうに眺めて……。まるで、初めて外に出た平民の娘みたいよ」
「……申し訳ありません、御母様。ただ、今夜の月があまりに美しかったものですから」
「ふん。レイラ、アンナを許してあげなさい。この娘は、宴の会場にさえ着けば、嫌でも元気を取り戻すわ。あそこはアンナにとって、自分の『領地』のようなものですもの」
母はレイラを宥めるように言ったが、その目は笑っていなかった。
母の中にある「アンナ」という像と、今の私の振る舞いが、決定的に食い違っている。その苛立ちが、馬車の中の空気を重く沈ませていた。
やがて、馬車が緩やかに速度を落とし、完全に止まった。
扉が開かれ、外の冷気が流れ込んでくる。
父、母、そしてレイラが先に降りていく。
私は最後の一人として、馬車のステップに足をかけた。
地上には、銀の甲冑に身を包んだ側近の兵士が直立不動で控えている。彼は無言で、手袋を嵌めた手を私に差し出した。
「……あ、ありがとう」
私は彼の分厚い掌に、そっと自分の手を預けた。
もう一方の手で、重厚な真紅のドレスの裾を、汚さぬように静かに持ち上げる。
その時、不意に視界が開けた。
目の前にそびえ立っていたのは、月光を反射して白銀に輝く、荘厳な王宮だった。
天を突くような尖塔、幾重にも重なるアーチ型の窓、そして入り口に鎮座する巨大な獅子の石像。
それは、夢や想像を遥かに超えた、圧倒的な「現実」としての威容だった。
「……あぁ……」
思わず、感嘆の息が漏れる。
あまりの光景に、私は一歩も動けず、その場に釘付けになってしまった。
前世で見たどんな映画も、どんな写真も、この場所に漂う「歴史の重み」と「魔力の残滓」には及ばない。
「……アンナ。何をボサッとしているの」
不意に、腕を強く引かれた。
気づけば、既に先を進んでいたはずの母が、溜め息を漏らしながら戻ってきていた。
彼女は私の手を強引に引くと、足早に王宮の入り口へと向かう。
「まったく、どうしたというの、アンナ。あなた……事故の後から、まるで別人みたいよ」
母の呟きが、冷たい風に乗って私の耳に届いた。
「別人みたい」
その言葉が、鋭い氷の礫となって胸を貫く。
否定したかった。けれど、それは紛れもない事実だった。外見こそ「アンナ」という美しい器を保っているけれど、その中身は、全く別の魂に置き換わってしまっているのだから。
けれど、私の手を引く母の手のひらは、驚くほど温かかった。
彼女の言葉は棘に満ちていたが、その握りしめる力には、どこか放っておけないという、歪な愛着のようなものが混じっている気がした。
王宮の巨大な扉の前には、豪奢な礼服を着た、身分の高そうな執事が控えていた。
彼は私たちの姿を認めるなり、深く、流麗な一礼を捧げる。
「お待ちしておりました、フェレンツ公爵家の方々。こちらです。既に宴は始まっております」
「遅れて済まないわね。この子が少し、手間取ってしまって」
母が不満げに言い、再び私の手を引いて歩き出す。
案内の傍ら、私は視界に飛び込んでくる王宮の内装に、またしても心を奪われていた。
磨き抜かれた大理石の床、天井から吊り下げられた巨大なクリスタルのシャンデリア。壁を飾る壮大な油彩画の一つ一つが、私にこの世界の広さを語りかけてくる。
「アンナ、前を見なさい。淑女がキョロキョロと首を動かすものではありません」
母の叱責が飛ぶ。
それでも、彼女の手の温もりは離れなかった。それが、今の私の唯一の支えだった。
やがて、重厚な扉が左右に開かれ、溢れんばかりの光と音楽が私たちを飲み込んだ。
「……っ」
会場には、驚くほど多くの貴族たちが詰めかけていた。
色とりどりのドレス、煌びやかな勲章、そして、どこか神経を逆撫でするような「香水」と「影」の入り混じった匂い。
ざわめきの中から、断片的な会話が聞こえてくる。
「皆、待ちきれなかったようですわね。この日を」
「ああ、最近は戦争で宴の回数も減ってしまっていたからな。実に嘆かわしいことだ」
「ですが、今宵の催しは今までより遥かに豪勢らしいですわ。実に楽しみ。ンフフ♪」
「本当だな〜。どんな『目玉』があるのか……」
人々の欲望と期待が渦巻く、澱んだ空気。
先ほどまで眺めていた美しい月光とは、あまりに正反対の光景。
(……はぁ。帰りたいわ)
私は心の中で、深く、深く溜息を吐いた。
華やかさへの感動は、一瞬にして現実的な苦痛へと塗り替えられる。
立食パーティー。その響きだけで、コルセットで締め上げられた胃が悲鳴を上げそうだった。ヒールの高い靴が、既に足首に疲労を溜め始めている。
(……こんなにきついドレスじゃ、飲み物くらいしか喉を通らなさそうね……)
そう呟きながら、私は会場を横目で見渡した。
やはり、何かがおかしい。
どんなに美しく飾られた皿も、今の私には「何も食べられない偽物」にしか見えない。
自分に言い聞かせながら、私は母の背中を追った。




