色を失った世界
重厚な天蓋付きのベッドの上で、私は自分の指先を見つめていた。
爪の先まで完璧に整えられた、白磁のような手。指の一本一本が、私の意思とは無関係に、そこにあるべきものとして存在している。
(……変ね。本当に、変だわ)
頭の芯が、ずっと熱に浮かされているようにぼんやりとしている。
数日前、階段から足を踏み外して意識を失い、目覚めたその時からだ。私の脳内には、身に覚えのない「知識」が濁流のように流れ込んできた。
そこには、ここではないどこか、鉄の箱が走り回り、空を飛ぶ機械がある異世界の記憶があった。そして、その世界で私が親しんでいた「物語」の中に、今の私――公爵令嬢アンナ・フェレンツによく似た「悪役」が登場することも。
「悪役令嬢、なのよね。私は」
唇を動かして呟いてみるが、自分の声さえ、遠くの誰かが喋っているようにしか聞こえない。
記憶が戻った、という感覚はある。けれど、その記憶と今の自分がどうしても噛み合わない。パズルのピースが歪んでいるような、形容しがたい不快感が、常に胃のあたりに居座っている。
その時、腹の虫が小さく鳴った。
空腹。生理的な欲求。それに応えるべく、サイドテーブルに置かれた最高級の果実――薄くスライスされた瑞々しい梨――を一口、口に運ぶ。
かつての私なら、この甘美な香りと滴る果汁に目を細めて喜んだはずだった。
「…………っ」
舌がその物体に触れた瞬間、私は吐き気を堪えて口元を押さえた。
甘くない。瑞々しくもない。
それはまるで、冷たく湿った「泥」を噛んでいるようだった。あるいは、無機質な粘土。喉を通そうとすれば、ザラついた感触が食道を逆撫でし、拒絶反応が全身を駆け巡る。
数日前からそうだ。何を口にしても、味がしないどころか、生理的な嫌悪感しか抱けない。
水ですら、錆びた鉄の味がして飲み下すのが苦痛だった。
コンコン、と。
部屋の扉が叩かれる。返事をする間もなく、扉が開け放たれた。
「アンナ。もう時間ですわよ。いつまでそんな格好で休んでいるの」
部屋に入ってきたのは、母――フェレンツ公爵夫人だった。
彼女は冷たい美しさを湛えた顔に、一筋の不満を刻んでいる。その後ろには、影のように数人のメイドが控えていた。
「御母様……。申し訳ありません。少し、気分がよろしくなくて。その……食事も、あまり喉を通らないのです」
「気分? そんなもの、気合でねじ伏せなさい」
母が鋭く手を叩く。その音を合図に、控えていたメイドたちが一斉に動き出した。まるで、精巧な歯車が噛み合った機械のような、無駄のない動き。
「さあ早く。ドレスを。今夜は王宮での晩餐会なのよ。遅れることは許されません」
「はい、奥様」
若いメイドが私に一礼し、衣装部屋の扉を開く。
そこには、壁一面を埋め尽くすほどの、目も眩むようなドレスの数々があった。
「御嬢様、お好きなドレスをお選びください。今夜は陛下もいらっしゃいます。公爵家の品格に相応しいものを」
メイドの言葉に、私は重い腰を上げた。
一歩踏み出すたびに、視界がわずかに揺れる。足取りが頼りない。
「私……もう着替えくらい、一人で出来る歳よ。少し、休ませてはくれないかしら」
「その必要はないのよ。アンナ」
母の声が、背後から私を刺した。
彼女は鏡の中に映る私を、値踏みするように見つめている。
「あなたはただ、立っていればいいの。フェレンツ家の娘として、最も美しく飾られる。それがあなたの義務であり、価値なのよ。さあ、選びなさい」
拒絶を許さない響き。
そこには、娘の体調を案じる親の情などは微塵もなかった。あるのは、最高級の「商品」を磨き上げようとする執念だけ。
コンコン。
再び扉が叩かれ、今度はメイド長が顔を出した。
「入りなさい」
母の許しを得て、メイド長が足早に近づく。
「お着替え中、申し訳ありません。奥様。フェレンツ様がお戻りになりました。広間でお待ちです」
「あら? そう、すぐ行くわ」
母は私の方を一度も振り返らず、出口へと向かう。
「あなたも娘の着替えを手伝いなさい。一分の隙も、曇りも残さぬように」
「はい、奥様」
メイド長が深く頭を下げる。
部屋に残されたのは、私を囲むメイドたちと、静まり返った空気。




