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剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第1章:辺境の死神と『奈落』の番犬

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幕間1:甘味の監査と、秤の脆弱性

「ヴォルフ、糖分。至急です。脳が……脳が融解して、耳から漏れ出そうです」


「……まだ階段を10段上がっただけだぞ。お前の燃費はどうなってやがる」


 シュタール街の目抜き通り。

 エマ・ルミナスは、死に体の深海魚のような顔でヴォルフの腕にぶら下がっていた。


 彼女の脳内メーターは、午前中の過酷な帳簿確認によって完全に「空(E)」を指している。


「あ、あの! さっきは銅貨5枚って言ったじゃないか!」


 不意に、喧騒の向こうから少年の悲鳴に近い声が聞こえた。

 路地裏に近い食料品店で、みすぼらしい身なりの少年が店主に食い下がっている。


「へっ、ガキが。これはギルド公認の『特級栄養剤』だぞ」


 店主は汚れた(ハカリ)を叩き、少年を嘲笑う。


「今朝から流通管理規則(ギルド・ルール)が改定されて、容器代と臨時手数料で銅貨30枚に跳ね上がったんだ。払えないなら、その荷物を置いてさっさと失せな!」


「……規約の、改定?」


 ピク、とエマの眉が動いた。


 ヴォルフが「やめとけ、面倒だぞ」と止める間もなく、死にかけていたはずの査定員は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のような速度で店先へ移動していた。


「……店主。その『ルール』とやらを、第何条か正確に述べていただけますか?」


「あぁ? なんだお前、ギルドの制服……査定員だと?」


 店主はエマの胸元に輝く天秤の紋章を一瞥し、一瞬だけ怯んだ。

 だが、エマの顔色の悪さと、今にも折れそうな細い腕を見て、すぐに鼻で笑った。


「あ、あぁ、そうだ! 最新の管理規則だ。素人は黙ってろ!」


「……規則、ですか」


 エマは銀縁眼鏡を指先でクイ、と直した。

 レンズの奥、灰青色の瞳が冷徹な魔導式解析眼(トレース・アイ)へと切り替わる。


「残念ながら、シュタール支部の規約改定は1ヶ月後の予定です」


「なっ……」


「加えて、貴方の(ハカリ)……左側にわずか2グラムの重りが仕込まれていますね。


 さらに言えば、その『特級栄養剤』。主成分は安価な砂糖水と、わずかな着色料。原価は銅貨1枚にも満たない計算になります」


「な、何をデタラメを!」


「デタラメではありません。数字に慈悲は含まれませんが、嘘も含まれませんから」


 エマは事務的な手つきで、鞄から1本の万年筆と臨時監査証(リンジカンサショウ)を取り出した。


「規約第88条『不当価格操作および計器偽装』。この場をギルドへの背信行為と認定し、貴方の営業ライセンスを一時停止します」


「……っ、ふざけるな! そんなガキ1人に……! ぶっ殺してやる!」


 逆上した店主が、分厚い拳を振り上げる。

 だが、その拳がエマに届くより早く、黒い影が割り込んだ。


「――おい。うちの査定員が、仕事中だって言ってんだよ」


 ヴォルフが、店主の手首をギリ、と音が出るほど締め上げる。

 大剣を背負った野良犬の騎士が放つ、奈落(ピット)仕込みの殺気。


 それだけで店主の顔は真っ白になり、ガチガチと歯を鳴らした。


「……ヴォルフ、威圧による解決は非効率です。それより……」


 エマは、店主が隠していた商品棚の奥を指差した。


「……そこの、蜂蜜漬けのナッツ。没収、いえ、『証拠品』として押収します」


「……お前、ただ食いたいだけだろ」


     * * *


 数分後。

 震える店主から奪い返した銅貨と品物を受け取った少年は、お礼にと手渡された氷砂糖の欠片をエマに差し出した。


「……計算外の利益インカムですね。ありがたく頂戴します」


 エマはそれを口に放り込み、バリボリと無作法に噛み砕いた。

 氷のような瞳に、わずかばかりの生気が戻る。


「さて、ヴォルフ。今のやり取りで脳の糖分を消費しました。次はあの高級ベーカリーのタルトを『監査』する必要があります」


「自腹で食えよ。あと、階段は自力で登れ」


「無理です。……足の筋肉が、ストライキを起こしました。ヴォルフ、資産の運搬は護衛の義務に含まれているはずです」


 再びヴォルフの腕に全体重を預ける「理性の怪物」を、騎士は深いため息とともに抱え直すのだった。


査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


流通管理規則(ギルド・ルール)

地域経済の安定を目的とした、商品の価格や流通に関する規則です。今回のような小規模店舗でも遵守の義務がありますが、情報の遅い末端では、しばしば「独自のルール」として偽造され、弱者からの不当な搾取に悪用されます。


【規約第88条:不当価格操作および計器偽装】

独占禁止や消費者保護のための条項です。市場価格を恣意的に吊り上げること、および秤に細工をして計量を誤魔化すことは、ギルドに対する重大な背信行為と見なされます。この店主の場合、両方の役を満たしていました。


【臨時監査証】

不審な取引を現認した際、その場で即座に監査を開始するための許可証です。これがあれば、正規の手続きを待たずにライセンスの停止や証拠品の押収が可能になります。ちなみに、蜂蜜漬けのナッツは糖分保持の観点から非常に優れた証拠品です。


【秤の脆弱性】

アナログな計量器は、支点や重りにわずかな細工を施すだけで、容易に「数字」を歪めることができます。物理的な改竄は、私の眼の前ではただの「不細工な数式」として露呈するだけですが、一般市民にとっては深刻な経済的打撃となります。


【インカム】

本来の計画にはなかった、予想外の収入や収益のことです。少年からいただいた氷砂糖は、私の生命維持リソースに対する純粋な贈与であり、非課税対象の純利益として私の胃袋に計上されました。

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