第78話:王太子の印璽と、幻の資産
カビと埃、そして酸化した古いインクの匂いが充満する、王宮の地下深く。
かつては重要な公文書が厳重に保管されていたはずのその場所は、今や冷徹な《《戦場》》へと変貌を遂げていた。
重厚な石の壁に反響するのは、規則正しく、そして暴力的なまでに重い打撃音だ。
ドン!
ドン!
王太子ルーファスは、右腕に走る鋭い痺れを無視して、真鍮の印璽を書類の束へと叩きつけていた。
一国の王位継承者たる彼が、夜を徹して行っているのは、魔物との華々しい戦闘でも、着飾った貴族たちとの社交でもない。ただひたすらに、目の前に積み上げられた『特権の強制返還命令書』への承認作業であった。
「……剣の稽古の方が、よほど楽だと思える日が来るとはな」
数百枚目か、あるいは数千枚目か。
最後の大束に王室の紋章を刻み込み、ルーファスは大きく息を吐いて机に突っ伏した。指先は赤く腫れ、ペンを握るのとは違う、独特の鈍い痛みが掌に溜まっている。
彼の手元にあるのは、宰相派の貴族たちが代々独占してきた関所の通行税徴収権、塩の専売権、そして広大な王領地の賃貸収益権を一斉に王家へと強制回収するための不吉な書類だ。これらはすべて、旧体制の強制決算を完了させるための、血の通わない弾丸であった。
だが、ルーファスの琥珀色の瞳には、依然として拭いきれない不信の火が灯っていた。
「エマ。……私は今、そなたの言う通りにこの重い判を押し続けている。だが、これは法的に本当に成立するのか? 父上は健在だ。王が承認していない特権の没収など、明日、宰相が一声『無効だ』と叫べば、それだけで私はただの不敬者として処刑されることになるぞ」
部屋の対角、山のような帳簿の陰から、冷徹な声が響く。
「平時であれば、殿下の仰る通りです」
エマ・ルミナスは、眼鏡の蔓を指先で直し、万年筆を動かしたまま答えた。
彼女の灰青色の瞳は、すでに目の前の紙面を越え、脳内に展開された膨大な計算式の流転を捉えている。ランプの光に照らされた彼女の横顔は、死人のように蒼白く、しかしその眼差しには絶対的な秩序への狂信が宿っていた。
「ですが、王国定款・第73条……《《国家非常事態における清算条項》》を読み解けば、答えは明白です。国家の債務超過、すなわち致命的な不備が客観的に証明された瞬間に限り、現経営陣――つまり国王陛下と宰相の資産処分権限は、法的に一時停止されます」
「停止、だと?」
「はい。そして、次期王位継承者が強制的に清算人として全権を掌握し、資産の保全を行う義務が生じるのです。殿下が今行っているのは、王の命令を覆す反逆ではありません。法に定められた規律に従い、自らを管財人に任命して、不当に流出した国の資産を封鎖するための事務手続きです」
エマはそこでようやくペンを止め、ルーファスを射抜くような視線を向けた。その瞳の奥には、青白い魔導回路の残光が微かに明滅している。
「宰相ギルフォードは、国民の命を削って得た精気を隠し資産とし、あたかも国が黒字であるかのように粉飾して、協力者の貴族たちに甘い利益をばら撒いていました。……会計上、これは『違法配当』に他なりません。利益がないのに配られた資産は、法的に全額返還の対象となります。殿下は、泥棒から品物を奪い返しているだけです。それも、最も正当な手段で」
「……泥棒、か。私を含めた王族すべてを指す言葉だな」
「否定はしません。……ですが、この強権を発動させるには、私が明日の朝までに『この国は完全に破綻している』という完璧な証拠を、数字で突きつける必要があります。殿下の印璽に魂を宿らせるのは、私の仕事です。正確な監査結果なくして、この刃は完成しません」
エマが再び帳簿の海へと沈み込むと、ルーファスは皮肉な笑みを浮かべ、部屋の隅で暗号書簡を猛烈な速度で書き上げている女へと向き直った。投資家、ビアンカだ。
「だが、ビアンカ。そなたの役割も、いまだに正気とは思えん。明日の議会で私が『特権の没収』を宣言すれば、これらの権利は一瞬で無価値な紙屑になるはずだ。……なぜそなたは、わざわざ自分の商会をそのゴミの受け皿に指定させた? そなたの資産をすべてドブに捨てるつもりか?」
ビアンカはペンを止め、妖艶な、しかし底冷えするような笑みを浮かべた。彼女の細い指先では、一枚の金貨がまるで生き物のように滑らかに踊っている。
「殿下。だからこそ、《《今夜のうちに》》売ってしまうのですよ」
「何だと?」
「議場にいる貴族たちは、明日も自分たちが特権階級として贅沢ができると信じて疑っていません。だから私は、殿下が今押した印璽の効力を使って、闇市場の商人たちに『これらの特権を今すぐ譲渡する』と持ちかけるのです。彼らが私の商会を信用し、高い価格を提示している今のうちに売り抜ける……現貨だけを、先に回収するために」
ルーファスは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……つまり、市場の連中が高い金を出してゴミを買わされている間に、そなたは現貨だけを抜き取って、あとの責任をすべて彼らに押し付けるということか?」
「逃げるのではありません、再投資するのです。手に入れた莫大な現貨は、そのままバルカ教授が用意する新しい魔導炉の部材費や、辺境への物流を支える事業資金へと回します。……死にかけた資産を、生きた金に換える。私の得意分野ですわ」
「合法的な強盗だな……。ルミナス家の娘といい、そなたといい、数字を扱う女というのはこれほどまでに恐ろしいのか。血を流さずに、人からすべてを奪い去っていく。その冷徹な原価を、我々に支払わせるのだな」
ルーファスは呆れたように首を振ると、ふとビアンカの横顔を眺めた。ランプの光に照らされた彼女の黒髪は、冷徹な刃のような鋭い光沢を放っている。ビアンカは、身分も名誉も関係なく真実を追ったエマの父、エドワードへの敬意を静かに語った。
「ルミナス家の人間は、数字という真実のためなら、どこまでも執念深く、そして狂っています。私は、その狂気に投資しているだけです。……殿下、そろそろ最後の束ですわよ。夜明けが、貴方の判の音を追い越しにやってきます」
「……ああ、分かっている」
ルーファスは痺れる手で再び印璽を握り、真新しい書類を引き寄せた。
掌は熱を持ち、指の感覚はほとんど失われていた。だが、一枚ずつ印を重ねるたびに、王冠という名の飾りが自分の頭から剥がれ落ち、代わりに重い『原価』が肩に食い込んでいくような実感が、彼を支えていた。
誰かの命を理不尽に奪うことより、誰かの不当な権利を正しく剥奪することの方が、よほど重労働で、そして血なまぐさい。
物理的な剣ではなく、法と市場という名の見えない網が、夜明けの王都へと静かに、しかし確実に張り巡らされていく。
エマの万年筆が、羊皮紙を削る尖った音だけが室内に響く。
一人の農民が生み出す収穫から、王国二十年の未来を弾き出す、最後の計算式。
ルミナリス王国の《《算盤による国家清算》》》する刻限まで、残された時間はあとわずかであった。
■元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【強制決算と清算人】
組織が破綻した際、残った資産を法的に整理する責任者のこと。エマは王国を破綻組織と定義し、王太子をこの立場へ就任させることで、宰相の権限を停止し、旧体制の帳簿を強制的に閉じる手続きを開始しました。
【不備と違法配当】
本来分配すべき利益がないにもかかわらず、架空の黒字を捏造して利益をばら撒く行為。宰相が国民の寿命を精気に変えて貴族に与えていた特権はすべてこの不備に該当し、法的に全額返還の対象となります。
【原価としての責任】
特権を享受する側から、その対価(責任)を支払う側への転換。ルーファスが印璽を叩くたびに感じる手の痛みは、これまで国民が支払わされてきた不当なコストを、自らの身で引き受ける儀式でもあります。
【監査と王国総産出高】
一定期間内に王国全体で生み出された真の実りの総和。エマはこの数値を指標とした監査により、寿命を使い潰す一時的な利益よりも、誠実な労働がもたらす利益の方がはるかに巨大であることを証明し、宰相の論理を崩壊させます。
【最終段階】
監査によって導き出された「真実」という成果物を、大議会という公式な場へ提出すること。夜明けとともに始まるこの工程こそが、ルミナリス王国の運命を決定づける最終的段階となります。




