第7話:中央の監査 Ⅲ ――破綻の轍と、冷徹な論理的宣告
シュタール支部、応接室。
窓から差し込む朝の光は、室内の張り詰めた空気を溶かすにはまだ弱すぎた。
豪奢なソファに深く腰掛けたヴェインは、完璧な所宣でティーカップをソーサーに戻した。
その立ち居振る舞いには、勝利を確信した者だけが持つ、静かで残酷な余裕が漂っている。
「良い茶葉だ。辺境の支部にしては、望外の持て成しだよ。……そう思わないか、エマ・ルミナス査定員」
ヴェインは薄く笑みを浮かべ、エマを試すように見つめた。
対照的に、向かい側に座るエマの顔色は、透き通るような白さを通り越して、どこか脆い硝子細工を思わせた。
連夜の徹夜によるものか、あるいはこれから下す「宣告」の重みが、彼女の細い肩にのしかかっているのか。
「……おはようございます、ヴェイン記録官。約束の期限です。先行承認の書類に、サインを求めに来られたのですね」
「察しが良くて助かるよ。君がこの書類にペンを走らせるだけで、すべては丸く収まる。本部も、君のこれまでの『無礼』を不問に付すと約束している。……さあ、サインは済ませてくれたかな?」
ヴェインの声は穏やかだったが、その奥には抜き身の剃刀のような鋭さが隠されている。
エマは震える手で眼鏡の位置を直し、デスクの上に一通の報告書をそっと置いた。
「サインはできません。……ヴェイン記録官。貴方が提出したこの輸送計画、および廃棄報告は、物理的に破綻しています」
ヴェインの端正な眉が、わずかに跳ねた。
「ほう。不備、か。……具体的にはどのあたりが? 手続き上の些細なミスなら、今ここで私が修正してあげてもいいんだよ」
「すべてです。……特に、事故現場となった『断崖の谷底』における馬車の挙動が、自然法則を無視しています。修正ペンで書き換えられるような、生易しいものではありません」
エマは傍らに控えていたヴォルフに視線を送る。
ヴォルフは無言で頷くと、雨に濡れた布包みをテーブルの上に広げた。
中から現れたのは、泥に塗れ、無残にひしゃげた旧式の魔導回路だった。
「これは……?」
「スラムの情報網を使い、現場から回収した『廃棄品』の現物です。
ヴェイン記録官、貴方は勇者パーティへの第4世代回路を輸送中に廃棄したと報告しましたね。ですが、私の魔導式解析眼が捉えたこの残骸の波長は、数世代前のジャンク品のものです。
貴方は新品を廃棄したと嘘をつき、実際にはこのガラクタを崖から投げ落とした」
ヴェインの余裕が、音を立てて剥がれ落ちていく。
「……馬鹿げたことを。そんな汚らわしいガラクタ、どこで拾ってきたかも怪しいものだ。証拠能力はない。ただの言いがかりだよ、エマ」
「証拠なら、貴方の書いた計算式そのものにあります」
エマは一枚の図面を広げた。
そこには、馬車が転落した際の轍の深さと角度が、緻密に書き込まれている。
「貴方の報告書には、勇者の加護により馬車の質量が30パーセント軽減されていたとあります。
……しかし、現場の轍を解析した結果、土壌にかかった圧力は通常の積載重量と完全に一致しました。つまり、加護など最初から存在しなかった」
「それがどうした! 魔力の揺らぎで轍が多少深くなることなど――」
「いいえ、逆です。加護がないということは、中身が『空』か『安物』でなければ、轍はもっと深くならなければならない。
……計算が合いません。本物の第4世代回路を積んだ馬車がその轍を残すには、重力が現在の70パーセントでなければ不可能なのです。
貴方は、数字だけを整えようとして、現実の重力まで改竄し忘れた」
エマの灰青色の瞳が、無機質ながらもどこか哀しげにヴェインを射抜く。
ヴェインは激昂し、テーブルを叩いて立ち上がった。
「数字遊びはやめろッ! 私が……私たちがどれだけの重圧の中で組織を守っていると思っている!
この承認1つで、王都の母が……病床の母が救われるんだ! 勇者からのリターン(魔導薬)がなければ、彼女は来月を越せないんだよ! 君のような世間知らずの理想主義者に、人の生活の重みがわかるものか!」
ヴェインの叫びは、剥き出しの悲鳴となって部屋に響いた。
それは「生活」という、あまりに切実な重みを伴った叫びだった。
しかし、エマは一瞬だけ瞳を伏せた後、再び事務的なトーンを維持したまま、静かに告げた。
「……ヴェイン記録官。約款に『家族への愛』という控除項目は存在しません。貴方が守るべきだったのは私情ではなく、ギルドの信条たる数字です」
「貴様……血も涙もないのか……!」
「血も涙も、帳簿には記載できません。もし記載できたとしても、その赤色は、横領という罪の汚名を隠す役には立たないでしょう」
エマは最後の一葉を、引導を渡すように突きつけた。
それは、ヴェインが裏で本物の回路を横流ししたルートを示す、裏帳簿の写しだった。
「規約第5条『利敵行為および横領』に基づき、貴方の更実を勧告します。……併せて、魔力回路の永久封印を。
貴方の人生を、過失致死罪と同等の負債で清算させていただきます」
「……っ、あ、あああああッ!!」
自暴自棄になったヴェインが、隠し持っていた魔導具を起動しようとした瞬間――。
ヴォルフが音もなく動き、ヴェインの手首を、折れるような音と共に制圧した。
「……査定は終わった。喚くな、見苦しいぜ。お前の『生活』とやらのために、誰かが犠牲になる帳簿なんて、俺の雇い主は絶対に許さねえよ」
ヴォルフの琥珀色の瞳には、同情の欠片もなかった。
* * *
数時間後。
本部の執行官たちに引き立てられ、ヴェインはシュタール支部を去った。
嵐の後のような静寂が戻った応接室で、エマは一人、ソファに深く沈み込んでいた。
「……ヴォルフ、眼鏡を。……少し、歪みました。視界が、うまく合いません」
「……ああ。無理しすぎなんだよ、お前は。あのままヴェインが折れなきゃ、お前の方が先に倒れてたぞ」
ヴォルフは無言で彼女の眼鏡を手に取り、慣れた手つきで歪みを直した。
そして、氷砂糖の入った袋をテーブルに置いた。
エマはそれ一粒を手に取るが、口に運ぶ指先が、隠しようもなく白く震えている。
限界を迎えた肉体が悲鳴を上げている証拠だった。だが――。
「……計算違い、でした」
エマは氷砂糖を噛み砕き、デスクに残されたヴェインの『青い書類』を冷たく見下ろした。
「ヴェイン記録官の目的は、私を陥れることではありませんでした。この応接室に私を釘付けにし、《《時間を浪費させること》》だったのです」
「……あ?」
「この勇者への補給物資の書類。……彼らは『魔導回路の廃棄処分』を理由に、不自然な請求を通そうとしました」
エマの灰青色の瞳が、スッと細められる。
「もし、この『廃棄』という名目が、ギルドの資金を裏へ流すための常套手段なのだとしたら。
……彼らが本当に隠したかったのは、この勇者の帳簿ではなく、過去に行われた『他の廃棄』の記録です」
エマは震える足に無理やり力を込め、弾かれたように立ち上がった。
「ヴォルフ。私は地下資料室に潜ります。過去の『廃棄証明書』をすべて洗い直す。……1ゴールドの誤差もなく、彼らが隠した嘘を弾き出しますよ」
勝利の余韻など、初めから存在しなかったのだ。
姿なき『本当の闇』へと続く、底知れぬ『死の査定』が、今まさに始まろうとしていた。
査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【轍】
馬車が走行した際に土壌に残される溝です。土の硬度、湿球温度、そして積載重量から、その馬車が「何を運んでいたか」を逆算できる重要な物理証拠となります。ヴェイン氏は数字を改竄しましたが、重力という定数までは支配できませんでした。
【加護】
勇者や聖職者が付与する、物体の重量軽減などの魔導的な支援効果です。ヴェイン氏は「馬車が軽かった理由」としてこれを捏造しましたが、現場の轍(物理)との整合性が取れていない以上、それはただの空論です。
【過失致死罪】
不当な魔導具の横流しや整備不良が原因で、間接的に他者の命を奪った際に適用される罪状です。ヴェイン氏の行為は、補給を待つ最前線の兵士たちの命を危険に晒したため、この基準で負債を算定しました。
【清算】
不正によって生じた負債や罪を、資産の没収や権利の剥奪によって強制的に埋めるプロセスです。ヴェイン氏の地位、ライセンス、そして未来の労働価値は、すべてこの清算の対象となりました。
【魔力回路の永久封印】
魔導士や査定員にとっての「死」に等しい刑罰です。魔力を扱うための器官を人為的に閉塞させ、二度と術式を行使できなくします。数字を裏切った者への、ギルドからの最終的な回答です。




