第58話:過去編 III ――父の残した数式と、奈落の契約
色彩を失った世界は、驚くほど静かで、そして効率的だった。
ルミナス侯爵邸が灰燼に帰してから、三年の月日が流れた。十六歳になった私の視界は、今や16進法のデータと、物理法則を定義するグリッドラインによって支配されている。
王立保険ギルド、高等査定員養成アカデミー。そこは、人の命を「リスク」と「リターン」という名の数式に解体し、金貨の重さで再定義する冷徹な教練所だった。
「……本日分の試算、完了しました。誤差は0.002パーセント以内です」
私は事務的に報告書を差し出し、灰青色の瞳に宿る魔導式解析眼をオフにする。
目の前に立つ教官は、私の報告書を一瞥し、忌々しそうに鼻を鳴らした。
彼らにとって、私は「首席計数官が遺した呪われた遺産」であり、同時に、自分たちの地位を脅かしかねない精密すぎる計算機だった。
「……相変わらず、可愛げのない数字だな、エマ。貴様の脳には、慈悲という名の係数は存在しないのか?」
「慈悲は、帳簿の整合性を乱すノイズに過ぎません。……それよりも、私の負債明細の更新をお願いします」
私が指し示したのは、ギルドが私に課している「生存コスト」の集計表だった。
三年前のあの日、私は自らを商品としてギルドに売り払った。
住居費、食費、高度な教育費、そして「反逆者の娘」としての監視コスト。それらすべてに、年率12パーセントの複利が乗せられている。
現在の私の負債総額は、480,000ゴールド。
一般市民が一生をかけても稼げぬ額が、私の細い首に目に見えぬ鎖として巻き付いている。だが、私はこの数字を苦痛だとは感じていなかった。負債こそが、私がこの世界に存在する唯一の《《証明》》だったからだ。
*
その日の午後。
私はギルド上層部からの「特別任務」として、王立最下層監獄、通称『奈落』の損耗記録の整理を命じられた。
それは、劣悪な環境で死んでいった犯罪者や、身元の知れぬ奴隷たちの死を「無価値な損出」として確定させる、泥を啜るような作業だった。
他の査定員が「死臭がする」と吐き捨てて逃げ出すような、埃まみれの地下記録庫。
私は一人、真鍮の万年筆を握り、数十年分に及ぶ死の羅列を読み下していった。
一行、また一行。
文字通りのゴミとして処理された命の数々を、私は魔導式解析眼で走査していく。
私の脳が、感情という名の安全装置を切り離した際に引き起こした論理欠陥は、依然として私を支配していた。
(――不備をすべて、物理的に排除しなければ。そうしなければ、父様の言った正しい帳簿は完成しない)
その執念だけが、暗い地下室で私の脳を動かす燃料となっていた。
作業開始から14時間が経過した頃だった。
酷使された脳が熱を持ち、視界の端でノイズが踊る。私は懐から取り出した高純度の氷砂糖を奥歯でガリリと噛み砕いた。
瞬時に脳へ供給される糖分。意識が加速し、情報の海が再び鮮明になる。
その時だった。
魔導式解析眼が、一行の不自然な数値に、針が触れるような違和感を覚えた。
管理番号:NX-7042
資産価値:500ゴールド
状態:重度汚染、魔力回路損壊、廃棄(殺処分)推奨
備考:旧ルミナス家、護衛騎士の息子。
全身の血が、一瞬で凍り付くような感覚だった。
心は三年前のあの夜に隔離したはずなのに、脳内のデータベースが、猛烈な勢いで過去の記憶を照合し始める。
「……あり得ません。計算が、合わない」
私は思わず声に出していた。
ヴォルフ。あの日、私を逃がすために盾となり、奈落へと引きずり込まれていった少年。
私の記憶にある彼の「個体性能」は、当時十四歳にして既に並の騎士を凌駕していた。その生存本能、筋繊維の密度、そして主君を守り抜こうとする強固な精神。それらを係数に含めれば、いかに三年の拷問を受けたとしても、資産価値が500ゴールドまで暴落するのは、計算上の整合性を著しく欠いている。
500ゴールド。
それは、勇者アレクサンダーが空けるワインの、わずか七分の一の値段。
あの不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐだった少年の命が、酒瓶一本よりも安く見積もられている。
「……市場の歪み。不適切な減価償却」
私は震える指先で、記録をさらに深く掘り下げた。
見えてきたのは、監獄側と闇ブローカーとの癒着だった。価値ある囚人を「死んだ」ことにして資産価値を暴落させ、安値で裏市場へ横流しする。これは神殿と宰相が作り上げた、利益還流システムの末端だった。
父を殺し、私から色彩を奪った奴らが、今度はヴォルフを「ゴミ」として処理しようとしている。
私の脳内で、赤いエラーメッセージが激しく点滅した。
(――不備を。不備を、物理的に排除しなさい)
私は即座に地下室を飛び出し、ギルド総裁の執務室へと向かった。
夜更けに現れた異様な少女の姿に、総裁は眉を顰めたが、私は彼が口を開くより早く、一枚の誓約書を机に叩きつけた。
「管理番号:NX-7042を、私が買い取ります」
「……何だと? あんなゴミ同然の奴隷を、貴様が何を思って。情けでもかけたか?」
「これは感情ではありません。投資です」
私は、まだ手にしていない将来の10年間分の「実績報酬」をすべて前借りの形で差し出し、さらに自らの負債に10,000ゴールドを積み増すことを提案した。
十六歳の少女が、自らの全人生を二重、三重に抵当に入れる。
総裁は、私の瞳に宿る、狂気にも似た冷徹な光に気圧されたように、ゆっくりと承諾印を動かした。
*
翌朝。
私は王立最下層監獄、『奈落』の重厚な鉄門の前に立っていた。
立ち込める汚水の臭いと、絶望の混じった冷気が、私の灰色の制服を湿らせる。
案内された地下四層。光の届かぬ独房の奥底。
壁に四肢を鎖で繋がれ、泥と凝固した血にまみれた「影」がそこにあった。
かつての精悍な面影は、無残な傷跡と伸びきった髪に隠されている。
魔力回路を強引に焼かれた痕が、首筋に醜いケロイドとなって残っていた。
彼は、近づく私の足音にさえ反応しない。ただ、虚ろな琥珀色の瞳で、色彩のない床を見つめているだけだった。
私は、彼との距離を詰め、懐中時計をカチンと閉じた。
その金属音が、静寂の中で鋭く響く。
「……随分と、安い値がついたものですね、ヴォルフ」
数年ぶりに呼んだその名は、私の舌の上でひどく苦く感じられた。
ヴォルフが、ゆっくりと首を上げる。その瞳に、信じられぬものを見たという戸惑いと、数秒遅れて激しい憎悪が混ざり合う。
「……エマ……? いや……ギルドの、犬か……」
掠れた声。けれど、その底にはまだ、あの頃の猛々しい獣の魂が、細い火となって燻っていた。
私は動揺を一切見せず、事務的なトーンで告げた。
「貴方の残存簿価、500ゴールド。……その全額を、私が先ほど決済しました。今日この瞬間より、貴方の命は、私の管理下にある専属資産です」
ヴォルフが、喉の奥で獣のような低い唸り声を上げる。
私は彼の目の前に立ち、真鍮の万年筆で彼の鎖を指し示した。
「……計算によれば、貴方はあと3日で処分される予定でした。……私の負債を、これ以上増やさせないでください。働きなさい、ヴォルフ。……私が、この世界のすべての不備を清算する、その日まで」
ヴォルフは、何も言わずに私を睨み据えた。
その視線が、かつて庭で木剣を合わせた時の温かさを一欠片も含んでいないことを、魔導式解析眼は正確に、そして残酷に計測していた。
これでいい、と私は思う。
救済も、再会も、そんな情緒的な計算は必要ない。
私はただ、正しき帳簿を完成させるための最強の定数を、手に入れただけに過ぎないのだから。
色彩のない監獄の廊下。
私は、鎖を引きずるヴォルフを背負うようにして、光の射す出口へと歩み出した。
1ゴールドの狂いもない復讐。
そのための、最初の《《仕入れ》》が、完了したのである。




