第55話:嵐の前の棚卸しと、不器用な決起集会
王都ルミナリスの地下深く、公的な地図から完全に抹消された未登録区画。
王都の裏経済を牛耳る投資家、ビアンカが所有する『隠れ家』の重厚な扉が開き、ずぶ濡れの一行が転がり込んできた。
外の激しい雨音も、神殿のけたたましい警鐘も、何重にも施された防音魔法によってこの豪奢な空間には一切届かない。
無機質な青白い魔導ランプが、安全地帯へと生還した反逆者たちを静かに照らし出していた。
神殿の裏切り者として共に逃亡することになったアリアが、アンティークソファに倒れ込み、小さく安堵の息を吐く。
だが、ただ 1 人、エマ・ルミナスだけは休息を取ろうとしなかった。
彼女は濡れたスレート・グレーの制服の袖を乱暴に捲り上げると、部屋の中央にある重厚なマホガニーのテーブルに、懐から取り出した羊皮紙を広げた。
勇者パーティ『アヴァロン』が、国民の命を燃料にして不正な利益を得ていたことを示す「裏帳簿の原本」である。
「……休んでいる暇はありません。明日の朝、勇者アレクサンダーが『大聖誕祭』の舞台で茶番を演じる前に、この数字の矛盾を完璧な告発状として再構築します。情報の棚卸しを開始します」
エマの灰青色の瞳には、疲労の限界を通り越した、異様なまでの理性の光が宿っていた。
彼女は真鍮の万年筆を握り、別の計算用紙に猛烈な勢いで数式と論理を書き出していく。
「ちょっと、エマ。少しは落ち着きなさいよ。服くらい乾かさないと風邪を引くわよ」
部屋の隅で、ビアンカの備蓄庫から勝手に持ち出した高級なタオルで赤い髪を拭いていたセラが、呆れたようにため息をついた。
「心配には及びません、セラ先輩。明日の広場でアレクサンダーを完膚なきまでに追い詰めるための、完璧な証拠は揃いました。あとはこれを、誰の目にも明らかな矛盾として突きつけるだけです」
「ええ、証拠は完璧よ。……でもね、人間っていうのは、正しい数字よりも『信じたい奇跡』の方を優先する生き物なのよ。特に、明日集まる何万という大衆はね」
セラはタオルを放り投げ、悪戯っぽく、しかし極めて冷徹な笑みを浮かべた。
「だから、大衆を操っている『元栓』を先に締めておいたわ。さっき馬車の中から、私の名前で勇者パーティの有力なパトロンたちに、何通か匿名の速達を送っておいたの」
「手紙、ですか?」
「ええ。『明日、勇者アレクサンダーという船は沈む。巻き込まれたくなければ、今すぐ支援から手を引きなさい』ってね。……王都の貴族や商人たちは、英雄の奇跡なんて本当は信じていない。勇者の看板から得られる『利益』に群がっているだけよ」
セラは楽しそうに、自らの爪先を眺めながら続けた。
「沈むと分かっている船に乗り続けるバカはいないわ。明日の朝には、アヴァロンのパトロンたちは一斉に彼らを見捨てて逃げ出しているはずよ。無駄な被害を出さないための、賢い損切りの誘導ってやつね」
「……なるほど。貴女のその狡猾な政治力は、時に私の計算式よりも恐ろしいですね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エマは微かに口角を上げ、再び手元の告発状へと視線を戻した。
「資金源が断たれれば、勇者アレクサンダーはただの借金まみれの詐欺師に成り下がります。……彼が明日、奇跡を偽装するために使った魔獣の仕入れ値、違法な火薬代。そのすべてを、 1 ゴールド の誤差もなく……」
カリカリ、と音を立てていたペン先が、不意にピタリと止まった。
「……おかしいですね」
エマが、ひどく間の抜けた声を漏らす。
「インクが……出ません。予備のインクは、十分に補充してあるはずなのですが」
エマは不思議そうに万年筆の先を見つめる。
だが、インクが出ていないのではない。
地下金庫での並列演算から続く極限の魔力行使により、彼女の血中ブドウ糖はすでに致死ラインを下回っていた。指先の神経を動かすための最低限のエネルギーすら脳から供給されず、ペン先が紙の表面から数ミリ浮いたまま、空を切っていただけなのだ。
エマの視界が、急速に白く濁っていく。
頭の芯が泥のように重くなり、机の上の数字が意味を持たない幾何学模様へと崩れ落ちていく。
エマの身体が、糸の切れた人形のように机へと崩れ落ちそうになった瞬間。
背後から伸びてきた分厚い手が、エマの手から真鍮の万年筆をスッと抜き取った。
「……本日の業務はここまでだ、監査官殿」
「……ヴォルフ? 何を……ペンを、返して……」
「だめだ。鏡を見てみろ、死霊の方がまだ血色がいいぜ。お前が明日、大観衆の前で噛まずに数字を読み上げたいなら、今は脳みそを強制終了させろ」
ヴォルフは強制的にエマを椅子から立たせ、暖炉のそばの長椅子へと乱暴に、しかし決して痛みのないように座らせた。
「まったく、少し目を離すとすぐに死に急ぐんだからな。……おいルカ、何か甘いものはあるか」
「ビアンカさんの備蓄庫を漁ったら、とんでもないものを見つけたよ!」
ルカが隠れ家の奥から、高級なガラス瓶を抱えて戻ってきた。
中に入っていたのは、王族への献上品にしか使われないような、高純度の砂糖と魔力蜜に漬け込まれた、暴力的な甘さを誇る「特濃の果実の砂糖漬け」だった。
「こんな最高級品、スラムなら 1 粒 で 1 ヶ月 は遊んで暮らせるよ! もちろん、この食料調達の危険手当は、きっちりギルドに経費請求するから!」
ヴォルフはガラス瓶から、一番蜜がべったりと結晶化している砂糖漬けを無造作に掴み出すと、長椅子でぐったりとしているエマの口元に、有無を言わさず押し当てた。
「ほら、食え。お前の燃費の悪い脳みそに、直接薪をくべるようなもんだ。カロリーと糖分だけは無駄に高いからな」
「……非効率です。この粗悪……いえ、過剰に精製された糖分は、血糖値の急激な乱高下を招き、結果的に……むぐっ」
「理屈をこねながらヨダレを飲み込むな。いいから顎を動かせ」
ヴォルフに無理やり強烈な甘味を口にねじ込まれ、エマは恨みがましい目を向けながらも、震える顎でそれを咀嚼し始めた。
舌が痺れるほど直接的すぎる甘味。
だが、その暴力的なまでに純粋なブドウ糖が、口腔の粘膜から直接血流へと叩き込まれ、餓死寸前だった脳髄へと急激に浸透していく。全身の血管がドクンと脈打ち、白濁していた視界にカチリと焦点が戻るのが分かった。
「……甘すぎますね。これでは舌の味蕾が麻痺します」
エマはポツリと毒づきながらも、無心で甘い塊をかじり続けた。
その隣では、ルカが備蓄庫からくすねた高級ハムにかじりつき、セラが「素晴らしいヴィンテージの赤ワインを見つけたわ」とグラスを傾け、アリアが静かにパンの端をかじっている。
不器用で、野蛮で、明日の命も知れぬ反逆者たちの、泥臭い決起集会。
エマは蜜で汚れた指先をハンカチで拭いながら、ふと、視線を暖炉の炎へと向けた。
パチパチと爆ぜる火の粉が、彼女の脳裏の奥底に封印していた、古くてひどく痛ましい記憶の扉を叩く。
――温かい食卓。甘い焼き菓子。
かつて、自分にもこんな風に、囲むべき食卓があった。
国家の予算を数える、優しくて不器用な父。
穏やかな日常。
それが、理不尽な欲望と、悪意に満ちた嘘の数字によって、すべて焼き払われた 6 年前 の夜。
(……父様。私は明日、ようやく貴方を殺した巨大な嘘の、最初の 1 つ を打ち砕きます)
エマは静かに目を閉じた。
致死量ギリギリまで酷使された彼女の意識は、強烈な糖分の満腹感に誘われるように、すべてが失われたあの燃える夜の記憶――絶望の底で「死神」が生まれた日へと、ゆっくりと沈んでいった。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
棚卸し
決算の前に、倉庫に残っている商品や資産の数を正確に数え直し、帳簿の数字と実際の数が合っているかを確認する作業です。明日の告発を完璧なものにするため、回収した証拠と論理の最終的なすり合わせを行いました。
損切り
投資において、これ以上損失が拡大するのを防ぐため、見込みのない資産に見切りをつけて手放すこと。セラ先輩の流した噂により、明日の朝には、勇者アヴァロンという不良債権から、すべての貴族が手を引いているはずです。




