第5話:中央の監査 I ――不備と、氷砂糖の熱量
シュタール支部の執務室には、換気不良特有の重い空気が滞留していた。
窓の外に広がる工業都市の空は、厚い鉛色の雲に覆われ、今にも泣き出しそうな湿気を帯びている。
エマ・ルミナスは、真鍮の万年筆を握ったまま、デスクに突っ伏したい衝動を必死に抑え込んでいた。
視界の端が断続的に明滅している。
脳が悲鳴を上げている証拠だ。
低血糖と過労による貧血が、彼女の華奢な肉体を容赦なく蝕んでいた。
「……ヴォルフ。糖分を。至急……」
幽霊のような、掠れた声。
エマは視線すら上げられず、白い指先で空を掻く。
背後に控えていたヴォルフが、深いため息をついた。
「……ほらよ。言わんこっちゃない。階段を数段登っただけで息を切らす奴が、3日3晩ろくに寝ずに数字を追いかけるからだ」
無造作に投げ渡されたのは、飾り気のない紙包みだった。
中には、純度の高い氷砂糖の塊が詰まっている。
エマは震える手でそれを掴むと、1粒を口に放り込み、奥歯で乱暴に噛み砕いた。
ガリリ、という硬質な音が、静かな部屋に響く。
直接的な糖分が血流に乗り、霧がかった思考を無理やり明瞭な「監査官の思考」へと引き戻していく。
「……生き返りました。ですがヴォルフ、この建物の設計には悪意を感じます。階段を3段登るだけで動悸がするなんて、物理的な嫌がらせとしか思えません」
「3段で死にかけてるお前の体質の方が、設計ミスだろうが」
「……不本意です。私はただ、無駄な筋力にリソースを割いていないだけです。
で……本部の『差し戻し』は、終わったのですか?」
「俺に聞くな。お前が昨日から睨みつけているその書類の山に聞け」
エマのデスクには、天井に届かんばかりの書類が築かれている。
王都の本部から「不備」として突き返された、過去3カ月分の再監査資料だ。
その一枚一枚に、彼女が導き出した「正解」を否定する、傲慢な赤ペンでの修正指示が書き込まれていた。
約款の解釈ではなく、「調整の必要性」や「政治的な配慮」という、エマの辞書には存在しない不純なノイズが、彼女を苛立たせていた。
「あらあら、随分とお疲れのようね、エマちゃん。不健康な顔色が、プラチナブロンドの髪と同化しちゃってるわよ」
ノックもなしに扉が開き、赤いポニーテールを揺らしてセラが入ってきた。
彼女はギルドの制服であるジャケットを肩にかけ、スリットの入ったスカートから長い脚を覗かせている。
「セラ主任。……またジャケットを肩にかけて。ギルド規程第15条の着こなしに反します。
……それと、そのサブレのバターの香りは、今の私の胃には攻撃的すぎます」
「相変わらず可愛くないわねぇ。これ、ヴォルフくんの分もあるわよ。番犬くんは、お嬢様の介護で体力が資本でしょ?」
「……俺は犬じゃない。……いただくが」
セラは笑いながらエマのデスクに腰掛け、書類の山を指先でなぞった。
その視線は、後輩への憐れみと、そして年長者としての警告を孕んでいた。
「で、例の『中央の掃除屋』がもうすぐ来るわよ。オズワルド支部長のお気に入り、ヴェイン記録官。
彼は数字じゃなくて『損得』で動く人間だから、あんたみたいな正論モンスターは一番の好物でしょうね」
「正論モンスター……。私はただ、帳簿を合わせているだけですが」
その時、廊下から正確なリズムを刻む、硬い靴音が近づいてきた。
部屋の温度が数度下がったかのような錯覚。
扉が静かに、しかし断固とした力で開かれ、スレート・グレーの制服を隙なく着こなした男――ヴェインが現れた。
「――相変わらず、ここは部外者の出入りが激しいな。シュタール支部の規律はどうなっている」
ヴェインはセラを一瞥もせず、真っ直ぐにエマのデスクへと歩み寄った。
プラチナシルバーの髪をタイトに固め、冷徹な理知を湛えた双眸は、エマの疲弊した顔を値踏みするように見下ろす。
「ヴェイン記録官。……お久しぶりです」
「挨拶はいい。エマ・ルミナス、君の査定を本部は『有害』と判断した。
君が弾いた60,000ゴールドの不承認通知のせいで、王都の資材価格が跳ね上がっている。……数字に責任を持てと言ったはずだが?」
ヴェインは手に持っていた書類の束を、エマの鼻先へ叩きつけた。
紙の風圧に、エマの華奢な肩がびくりと震える。
「私の責任は計算の正確性に対してのみ存在します。市場価格の変動は、私の帳簿の管轄外です」
「……その屁理屈が通るのは、ルミナス家が健在だった頃までだ。
今は君の一筆で、100人のギルド職員の給料が止まる。君の『潔癖さ』が、他人の生活を壊している自覚はあるか?」
ヴェインは身を乗り出し、エマに心理的圧力をかける。
ヴォルフが沈黙のまま、ヴェインの視界を遮るようにエマの横へ一歩踏み出した。
琥珀色の瞳に鋭い殺気が宿る。
「……ヴォルフ、いいんです」
エマは震える手で銀縁眼鏡を直し、ヴェインに視線を返した。
低血糖の眩暈がするが、言葉だけは氷のように冷たく、正確に選ぶ。
「……生活の心配なら、私の専門外です。生活相談窓口へどうぞ。
私は、1ゴールドの誤差も許さない。……それだけが、私の価値ですので」
「……いいだろう。なら、その価値を試させてもらう」
ヴェインは嘲笑を浮かべ、一通の青い書類をデスクに置いた。
「勇者パーティへの緊急補給物資。オズワルド支部長の先行承認済みだ。
……期限は《《明日の朝9時》》。それが、オズワルド支部長から軍へ、この巨額の補填金が支払われる『最終決済時刻』だ」
ヴェインの冷たい声が、執務室の空気を物理的に凍りつかせる。
「それまでに査定を終えろ。1秒でも遅れれば、すべての不正は合法的に洗浄され、君のライセンスは本部の地下で精査されることになる」
圧倒的な宣告を残し、ヴェインが風を切って去っていく。
その背中を見送りながら、エマは机に散らばった書類を一枚ずつ、丁寧に揃え直した。
指先はまだ微かに震えていたが、それは恐怖ではなく、静かな憤りによるものだった。
「……あーあ、嫌な男。ねぇエマ、今のうちにあの数字、少しだけ『お化粧』しちゃう? 私が手伝ってあげてもいいけど」
セラが心配そうに身を乗り出す。
だが、エマは青い書類の束を愛おしむように撫で、首を横に振った。
「セラ主任。……私のペンに、嘘を書く機能は付いていません。
それに、これは単なる嫌がらせではありません。……私が先日、王都の『裏金ルート』を物理的に破壊した直後に、中央から異例の特別監査。タイミングが良すぎます。
彼らは本気で、私という不備を排除しに来たようです」
「……エマちゃん、それって」
「……売られた喧嘩です。1ゴールドの狂いもなく、完璧な『赤字』で叩き返して差し上げます。徹夜の準備を」
エマは青い書類を見つめ、静かに灰青色の瞳を燃やした。
王都の闇が放った《《刺客》》との、一歩も引けない防衛戦が幕を開けた。
査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【先行承認】
正式な調査の前に、権限を持つ者が暫定的に許可を出す手続きです。勇者パーティへの補給など、緊急性を要する場合に悪用されやすく、不正な資金還流の温床となる「脆弱性」の塊のような制度です。
【再監査資料】
一度完了した査定に対し、本部からの指示で再度調査を行う資料です。今回のものは、私の不承認通知を「政治的な調整」で無効化しようとする意図が見え隠れする、非常に不愉快な数字のゴミ山でした。
【不承認通知】
保険金や予算の請求に対し、私が「不当」と判断して支払いを拒絶する公的文書です。私の放った60,000ゴールドの拒絶が、王都の利権にまで波及しているようですね。実に、計算通りです。




