第4話:傲慢なる美学と、贋作の計算式
「ああ……! なんという痛ましい姿か! 数百年もの間、人々の心を打ってきた至高の『青』が、このような無惨な灰になってしまうとは……!」
大理石の床に柔らかな陽だまりが落ちる、優雅なアトリエ。
窓の外から穏やかなリュートの音色が聞こえてくるこの「芸術の街・フィレン」は、これまでエマたちが通り抜けてきた血と煤の匂いがする辺境とは打って変わり、拍子抜けするほど平和で優しい空気に包まれていた。
しかし、最高級のベルベットが敷かれたテーブルの前では、この街で最も権威ある美術商・アルベールが、芝居がかった手つきで天を仰いでいる。
彼が嘆いているのは、テーブルに置かれた焼け焦げたキャンバスの切れ端と、ドロドロに溶け曲がった真鍮製の額縁の飾りだった。
「輸送中の馬車の事故とはいえ、これは世界の損失です。保険金の100,000ゴールドなど、この絵画の持つ『芸術的価値』に比べれば、あまりにも安い。ギルドが支払うべきは、金ではなく『歴史を失ったことへの謝罪』ですよ」
滔々と語るアルベール。
その目の前で、ヴォルフはこれ以上ないほど退屈そうな顔で、壁に飾られた前衛的な彫刻を眺めていた。
「……なぁ、エマ。このグニャグニャに曲がった鉄クズ、さっきのガラクタ工房に転がってた廃棄物と同じに見えるんだが。芸術ってのは、壊れても高いのか?」
「ヴォルフ。口に出してはいけません。付加価値をつけて高く売る、それが『芸術』という名の魔法です。
中身が何であれ、枠組みがその価値を担保している……帳簿上の粉飾決済と似たようなものですね」
エマ・ルミナスは背筋を伸ばして椅子に座り、出された上質な紅茶を静かに啜りながら、ピシャリと彼をたしなめた。
「ギルドも無粋ですね」
二人のコソコソとしたやり取りに気づいたアルベールが、スレート・グレーの制服を隙なく着込んだエマを見て、薄く嘲笑うような笑みを浮かべた。
「このような若いお嬢さんに、数百年の歴史を持つ『美』の価値が測れるとは思えない。
貴女たちのような《《数字の奴隷》》に、この筆致の喪失が理解できますかな? 欠けたキャンバスの一片に宿る魂の重さを、貴方は計れるのですか?」
静かな室内。
ヴォルフが僅かに目を開け、琥珀色の瞳でアルベールを射抜く。
だが、エマは指先で彼を制し、カチャリとティーカップをソーサーに置いた。
「ええ、おっしゃる通りです」
エマの声は、冷ややかなほど平坦だった。
「私には、この焦げた布切れが100,000ゴールドの美しさを持つのか、1ゴールドのゴミなのか、判断する『感性』が完全に欠落しています。魂の重さを測る秤も、あいにく持ち合わせておりません」
「……ほう。自覚があるのは結構なことです。ならば早々に、その書類に承認のサインを――」
「ですが」
エマは立ち上がり、テーブルの上の『残骸』を見下ろした。
次の瞬間、銀縁眼鏡の奥――灰青色の瞳の中に、チリッと青白い魔導回路が浮かび上がり、発光する。
魔導式解析眼。
ほんの一瞬だけ起動したその眼で、エマは灰の中に「あるはずの魔力残滓」が決定的に不足していることを視覚的に確定させ、氷の刃のように目を細めた。
「私は、『物質の法則』なら計算できます。アルベール氏、少し算数のお時間をいただけますか?」
室内の空気が、ふっと温度を下げた。
アルベールの顔から、余裕の笑みが僅かに剥がれ落ちる。
「法則……? 何を馬鹿な。芸術は――」
「アルベール氏。一般的な木造馬車が炎上した際の温度は、最高でも約800度です。木材の燃焼エネルギーと外気による冷却効率を考えれば、これが限界値です」
「は……?」
「しかし、この額縁の飾りに使われている真鍮がドロドロに溶ける融点は、約1000度。
……風通しの良い街道の馬車火災で、この飾りがこれほど無惨に『液状化』するのは《《物理的に不可能》》です」
エマはペン先で、溶けた真鍮の塊を事務的に指し示した。
「そ、それは……! 馬車の積荷に、燃えやすい油が混ざっていたのかもしれない! 火災というのは生き物だ、お前の浅はかな数字で測れるものでは――」
「油をまいたところで、馬車の構造上1000度を維持し続けるのは困難です。
……さらに、貴方の今月の帳簿です。裏街の無名の画材屋から、安価な『模造の青色顔料』を大量に購入していますね?」
「なっ……! なぜ、お前が私の帳簿を!」
「燃えたとされる本物の歴史的名画には、希少な鉱石『ラピスラズリ』から作られた青色絵の具が使われていたはずです。
キャンバスの大きさから計算して、本来なら最低でも50グラムは必要なはずなのに――」
エマは、冷酷な目でアルベールを突き刺した。
「私の『眼』には、この灰から検出されたラピスラズリの成分が、たったの3グラムしか見えませんでした。
……50 - 3。残りの47グラムはどこへ消えたのでしょうね? 魂と一緒に蒸発でもしたのでしょうか」
静寂。
芸術という見えない盾が、純粋な物理と算数、そして査定員の異能の前に粉々に砕け散った。
「貴方は、あらかじめ燃やすための『贋作』を作らせ、それを馬車に乗せた。そして、真実味を持たせるために、額縁の飾りだけを『1000度を超える高温の窯』で焼いて、後から現場に撒いた。
……真作は今も、貴方の地下金庫の中ですね? 100,000ゴールドの保険金を受け取りつつ、本物を裏で売却する。……二重取りの計算式としては、ずいぶんと強欲です」
「あ……、あ、あ……」
アルベールは後ずさり、豪華な椅子に崩れ落ちた。
「犯罪に芸術性などありません。あるのは、ギルドの約款第15条『意図的な損壊による詐欺』という事実だけです。
……違約金、および詐欺未遂による罰金の請求書です。サインを」
「ば、馬鹿な! こんな額……これでは商会が潰れてしまう!」
「期日を一日でも過ぎれば、貴方の地下金庫の中身をギルドがすべて『適正価格』で差し押さえます。大人しくペンを取るか、彼に腕ごとサインさせるか……お好きな方を選んでください」
壁際のヴォルフが、黒鉄の大剣の柄にゆっくりと手をかける。
カチン、と硬い金属音が鳴った瞬間、アルベールはひったくるようにペンを奪い、震える手で書類に署名した。
* * *
アトリエを出た二人。
美しい街並みの中、エマは少し歩き疲れた様子で立ち止まる。
「……お前、よくあんな飾りが溶ける温度なんて知ってたな。俺にはさっぱりだ」
「ただの一般教養です」
エマは眼鏡の位置を直し、懐から先ほどアルベールにサインさせた違約金の請求書を取り出した。
「……なぁエマ。あの美術商が贋作で稼いだ10万ゴールド。結局どこに流れてたんだ?」
「驚きました。資金洗浄のために三つの架空商会を経由していましたが、帳簿にあった最終的な送金先は……王都の、ギルド本部の『特別予算枠』でした。
……つまり、あの贋作ビジネスは、王都の高級官僚たちの非公式な『裏金作り』のシステムだったということです」
「……おいおい。ってことは、お前はたった今、王都の偉い連中の《《巨大な財布》》を物理的にぶっ壊したってことか?」
「ええ。地方の小悪党ならともかく、中央の利権に直接傷をつけたとなれば、あちらも黙ってはいないでしょう。
……近いうちに必ず、私を排除するための《《本部の刺客》》が送り込まれてくるはずです」
エマは小さく息をつき、広場にある色鮮やかな屋台の方を指差した。
「だからこそ、今すぐ補給が必要です。ヴォルフ、約束通り、そこの屋台で一番甘いクレープを買ってきてください。
これから始まる『中央との戦争』に備えて、脳が過剰に糖分を要求しています」
「……さっきまで大人一人を理詰めで地獄に突き落としてた『査定員殿』とは思えねえ我儘ぶりだな。
……ほらよ、行くぞ。糖分が切れて倒れられても、俺が担ぐのが面倒だからな」
ヴォルフは皮肉げに口角を上げながらも、歩き疲れたエマの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。
エマは密かに眼鏡の位置を直し、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
かつての「あの日」の不当な査定を覆すまで、彼女の計算が止まることはない。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【融点】
物質が固体から液体に変化する温度のことです。真鍮の融点は約1000度、一方で通常の馬車火災は約800度。この200度の「不一致」こそが、アルベール氏の美しすぎる嘘を台無しにした決定的な変数でした。
【ラピスラズリ】
青色の顔料として使われる高価な鉱石です。これには微弱な魔力が宿るため、私の魔導式解析眼をごまかすことはできません。50グラムあるはずの成分が3グラムしかなければ、それは魂の問題ではなく、単なる「中身の不足」です。
【贋作】
本物に似せて作られた偽物のことです。保険金詐欺においては定番のアイテムですが、額縁を焼いたり帳簿に顔料の購入歴を残したりと、今回は少々「演出」が過剰でしたね。
【約款第15条】
保険の対象を意図的に損壊、あるいは偽装して保険金を請求することを禁じた条項です。これを適用された場合、支払いの拒絶だけでなく、多額の違約金が発生します。芸術家を気取るなら、まずこのルールの美しさを理解すべきでした。




